第1回 フィールドワーク
今年度のテーマは『明日香村埋蔵文化財展示室の遺物(遺跡)からひもとく飛鳥の歴史』です。それぞれの出土地点(遺跡)を訪れ、‘‘出土遺物(遺跡)が語りかける歴史的情景を読み解く‘‘に基づいて、個別テーマ「飛鳥時代の土管から見えてくる真神原周辺の排水機能とは」の課題を解決するために探訪しました。講師の西光慎二先生の説明には私たち参加者の知的好奇心を十分に満たすものとなりました。
令和5年12月3日(日)あすか夢の楽市の駐車場に40名(内非会員6名、申込者数は過去最高の50名)が集合しました。西光先生の案内のもと、水落遺跡から飛鳥寺西門、飛鳥京の北限の地、飛鳥京(最近調査された発掘現場)、飛鳥寺南側の木製の桶出土地点から飛鳥寺の東雨落ち溝地点を歩いて巡りました。
先ずは、埋蔵文化財展示室で今回のテーマにかかわる土管を見学しました。この土管は飛鳥寺の西で出土した瓦質の‘‘土管‘‘です。直径20cm長さ約40cmあります。狭い口を広い口に入れて連なるように埋められていて、現物の迫力に「まさか瓦でできているとは」との驚きの声が上がっていました。
展示室を出て先ずは水落遺跡で説明を受けました。この水時計で使われた水は南の飛鳥寺西方面から水を引き込み利用していたと推測されるとの説明を受けました。特に当時出土した細い銅管を復元したものに全員が見入っていました。流れる管を小さくすることで水圧を上げる目的があるとのことでした。続いて‘‘アマダレ‘‘と呼ばれる飛鳥寺の築地塀に推定されている地点を通り、飛鳥寺西門の雨落ち溝の側にも土管が埋められていてその場所に立って説明を受けました。すぐ横に「入鹿の首塚」があります。そこから南へ道沿いに移動して展示室にある土管の出土地点に立って詳しく説明を受けました。掘り出された土管の長さは約16mで地表から1mのところに埋土を版築状にして丁寧に埋められていました。41個分直線ではなく緩いカーブを持ちながら北へ5cmの高低差を持って並んでいたとのことです。
雨水の排水であればわざわざ地中に埋める必要はなく、これほど立派な土管は水落遺跡や石神遺跡で使われる水として利用されたものと推定され、常時流れていたのではなく必要に応じて流されていたのではないかとのことでした。また、この土管の南隣からは木製の桶が出土されていておそらく繋がっていたと推測されています。確証はありませんが(接合部分は未発掘)もし繋がっていれば水圧を上げて水の勢いを強めるためにあえて内径の細い土管にしたとも考えられます。更に一行は南に向いて歩き水田畦畔が一段と下がった地点に立ちました。この地点は飛鳥京の北限となる大溝の出土地点で、飛鳥川方面に続くことから飛鳥京の飛鳥川へと流す排水溝であったと思われます。
次に、最近調査された飛鳥京の発掘現場に立って、新聞などで注目された岡本宮の塀の発見にかかわる興味深いお話を伺いました。発見された塀跡は、後の時代の宮殿建物が主軸を真北にしているのに対して、舒明天皇の岡本宮は東から北西方向に約25度振っているという特徴があります。周辺の地形が北西方向へ傾斜しているため、その自然地形に沿うように約35mにわたり検出されています。また火事で焼けた岡本宮を裏付けるように焼け土も検出されています。
この方角に関連して西光先生は、岡大字の地形を眺めてこのような方角となっている道や畦畔が何か所かに見受けられると説明されました。続いて飛鳥池遺跡のある西側の尾根、現在通っている県道下の水田より見つかった木樋の発掘された場所へ移動しました。この木樋は約50年前の調査で発見され、六角形をしています。検出された樋の長さは4.4m(さらに北北東に延びると思われる)にわたり検出され、伸びている方角は、真北ではなく真北より東に振っていて、6世紀末のものと推定されています。この樋の材質はわかりませんが、報告書によると大きな丸太を半分にして三辺を作り、中をくり抜き一つに合わせたものだとされています。またこの木樋の近くの小字カナヤと呼ばれているところに井戸があります。横1m、奥行き90㎝花崗岩の切り石でできた立派な井戸があり、今でもカナケ(鉄分を含み井戸の周りが茶色くなっている)を含んだ鉄サビ色の泡が水面を覆っています。地元では、あんぐう(行宮)井、または安居井と言われているようです。
ここから北を向いて進み、西光先生自身が発掘を担当された飛鳥井の回廊の雨落ち遺跡に立って説明を受けました。この溝は、1m下で検出され、室生安山岩(榛原石)を板状にした溝でした。特に南からこの飛鳥寺周辺の地形を見ていると飛鳥京から伸びてくる傾斜地形を蘇我氏が飛鳥寺を建てるために広い範囲で真っ平に造成して建てたことが容易に想像されます。また、今に残っている畦畔や道は、中門、南門、東西の回廊のあった場所を示すかのようにはっきりとした痕跡を残しています。
飛鳥時代には東南方向から北西方向に伸びる傾斜地からの雨水の排水対策はしっかりと取られていたと考えられます。飛鳥京の北限で見つかっている大溝、水を供給した土管など全容はまだまだ不明な点も多いですが、飛鳥寺の寺域周辺の真神原と呼ばれていた土地の開発に伴う排水機能や水時計や石神遺跡の須弥山石などに水が供給されていたことを想像するだけでもわくわくしてきます。
全参加者を満足させる西光先生の解説と重厚な価値ある資料を準備していただき、参加者は充実感をもてた貴重なフィールドワークとなりました。