第3回古文書講座 

第3回古文書講座 報告

今年度の最後となる古文書講座が11月25日(土)に実施されました。今回は、勾池から天徳山龍福寺までを読み解きました。講座が始まるまでに前もって担当の方がホワイトボードに読み下した分を書いておきます。それを参加者が講座が始まるまでに写したりもします。ホワイトボードをもとに、安田先生が指導(添削)と解説をされます。

今回は、勾池の箇所からです。勾池、真名池、島の宮が出てきます。そして勾池や真名池が同所にあるとしています。万葉集には「上の池」「下の池」が詠われていますが、勾池や真名池との関係はわかりません。次に南淵請安先生の墓のことも詳しく出てきます。石碑があって明神塚とも稲淵明神としても崇められているとして、例年十一月十六日にお祀りしていると記しています。また墓の傍らに「一畝」(約30坪)の水田があって村の中から順番に耕作して、これをお供えとしているとあります。有名な「乙巳の変」の中大兄皇子と中臣鎌足が請安先生に周孔の教え(儒教)を学びに行くすがら大事を図ったと記しています。
続いて、天徳山龍福寺が出てきて、大日堂の側にある「竹野王の石塔婆」のことも記されていて「文字剥滅して文明ならず」とすでにこの時には剥落が激しかったことがわかります。ただ下の段にあるかろうじて読める阿育王のことや年号の天平勝宝〇〇・・・従二位〇〇〇・・竹野王・・・と記しています。

次の挿図は江戸時代の石舞台の様子で、すでに石室の石がむき出しの状態です。ここでは「天武帝 殯古趾」とあります。そして「伝言 當地を島の庄といへるは古への嶋の宮の古跡ならんか」と記しています。続いて「橘の島の宮 勾池の嶋の宮・・」とあるようにここでは島の宮は橘の一部であったことがわかります。また挿図の真ん中の下あたりに記されている文には、「是石ばしを渡りて山の方にいたれば じゃうご村にいづるなり」とあります。上居へ行く主たる道は、現在とは違っていて大変興味深いものとなっています。

受講者で、この石橋の架かる川は唯称寺川ではないかと推測されました。またどこから俯瞰した挿図かと話題になりましたが、大字尾曽の 徳院のある方角を踏まえれば城山と呼ばれる石舞台の北側の丘陵から見て東南から南そして西南の景色をもとに描かれていると思われます。しかし先生によると方角や距離等正確ではないところがあるとのことです。身近な風景だけにいろいろと意見が出され、想像するだけでも面白い講座です。