令和6年 新年互礼会開催

1月21日(日)に文化協会と伝承芸能保存会による新年礼

例会が中央公民館において開催されました。コロナ禍を経て昨年から半日の開催となり、主に『伝承芸能の初演』の集いが中心の内容となっています。
開会にあたり、能登半島地震で犠牲となられた方々のご冥福を祈って黙とうを捧げました。
先ず「明日香の響き保存会」による八雲琴の初弾きが行われ、厳かな雰囲気の中、ホールに響く琴の音に聞き入りました。
演奏後の開会挨拶では、境山会長が今年の干支、辰にかかわる龍の話や、文化協会設立46年を迎え、創立の精神である「明日香の文化の発展に寄与する」ことを引き継いで、これからも活動に努めていくことを述べました。
さらに50周年を目指して「繋」補訂版に取り組んでいることを報告しました。
来賓を代表して森川裕一村長、松本年史村会議長、山本進章県会議員、飛鳥保存財団の田中充常務理事の方々から祝辞をいただきました。
出演は、南無天踊り(一部から五部までの全て)から始まり、新たに加入した小学生3名による鈴の演奏に大きな拍手が起こりました。また万葉朗唱にも新たなメンバーが加わりホールに響き渡る透き通った声で万葉集を披露していただきました。
最後に伝承芸能保存会の一年間の活動を紹介するDVDを鑑賞し、脇田初枝伝承芸能保存会会長から閉会の挨拶をいただき、全ての日程を終えました。

 

 

第3回古文書講座 

第3回古文書講座 報告

今年度の最後となる古文書講座が11月25日(土)に実施されました。今回は、勾池から天徳山龍福寺までを読み解きました。講座が始まるまでに前もって担当の方がホワイトボードに読み下した分を書いておきます。それを参加者が講座が始まるまでに写したりもします。ホワイトボードをもとに、安田先生が指導(添削)と解説をされます。

今回は、勾池の箇所からです。勾池、真名池、島の宮が出てきます。そして勾池や真名池が同所にあるとしています。万葉集には「上の池」「下の池」が詠われていますが、勾池や真名池との関係はわかりません。次に南淵請安先生の墓のことも詳しく出てきます。石碑があって明神塚とも稲淵明神としても崇められているとして、例年十一月十六日にお祀りしていると記しています。また墓の傍らに「一畝」(約30坪)の水田があって村の中から順番に耕作して、これをお供えとしているとあります。有名な「乙巳の変」の中大兄皇子と中臣鎌足が請安先生に周孔の教え(儒教)を学びに行くすがら大事を図ったと記しています。
続いて、天徳山龍福寺が出てきて、大日堂の側にある「竹野王の石塔婆」のことも記されていて「文字剥滅して文明ならず」とすでにこの時には剥落が激しかったことがわかります。ただ下の段にあるかろうじて読める阿育王のことや年号の天平勝宝〇〇・・・従二位〇〇〇・・竹野王・・・と記しています。

次の挿図は江戸時代の石舞台の様子で、すでに石室の石がむき出しの状態です。ここでは「天武帝 殯古趾」とあります。そして「伝言 當地を島の庄といへるは古への嶋の宮の古跡ならんか」と記しています。続いて「橘の島の宮 勾池の嶋の宮・・」とあるようにここでは島の宮は橘の一部であったことがわかります。また挿図の真ん中の下あたりに記されている文には、「是石ばしを渡りて山の方にいたれば じゃうご村にいづるなり」とあります。上居へ行く主たる道は、現在とは違っていて大変興味深いものとなっています。

受講者で、この石橋の架かる川は唯称寺川ではないかと推測されました。またどこから俯瞰した挿図かと話題になりましたが、大字尾曽の 徳院のある方角を踏まえれば城山と呼ばれる石舞台の北側の丘陵から見て東南から南そして西南の景色をもとに描かれていると思われます。しかし先生によると方角や距離等正確ではないところがあるとのことです。身近な風景だけにいろいろと意見が出され、想像するだけでも面白い講座です。

令和5年 第一回フィールドワーク

第1回 フィールドワーク

今年度のテーマは『明日香村埋蔵文化財展示室の遺物(遺跡)からひもとく飛鳥の歴史』です。それぞれの出土地点(遺跡)を訪れ、‘‘出土遺物(遺跡)が語りかける歴史的情景を読み解く‘‘に基づいて、個別テーマ「飛鳥時代の土管から見えてくる真神原周辺の排水機能とは」の課題を解決するために探訪しました。講師の西光慎二先生の説明には私たち参加者の知的好奇心を十分に満たすものとなりました。
令和5年12月3日(日)あすか夢の楽市の駐車場に40名(内非会員6名、申込者数は過去最高の50名)が集合しました。西光先生の案内のもと、水落遺跡から飛鳥寺西門、飛鳥京の北限の地、飛鳥京(最近調査された発掘現場)、飛鳥寺南側の木製の桶出土地点から飛鳥寺の東雨落ち溝地点を歩いて巡りました。

先ずは、埋蔵文化財展示室で今回のテーマにかかわる土管を見学しました。この土管は飛鳥寺の西で出土した瓦質の‘‘土管‘‘です。直径20cm長さ約40cmあります。狭い口を広い口に入れて連なるように埋められていて、現物の迫力に「まさか瓦でできているとは」との驚きの声が上がっていました。
展示室を出て先ずは水落遺跡で説明を受けました。この水時計で使われた水は南の飛鳥寺西方面から水を引き込み利用していたと推測されるとの説明を受けました。特に当時出土した細い銅管を復元したものに全員が見入っていました。流れる管を小さくすることで水圧を上げる目的があるとのことでした。続いて‘‘アマダレ‘‘と呼ばれる飛鳥寺の築地塀に推定されている地点を通り、飛鳥寺西門の雨落ち溝の側にも土管が埋められていてその場所に立って説明を受けました。すぐ横に「入鹿の首塚」があります。そこから南へ道沿いに移動して展示室にある土管の出土地点に立って詳しく説明を受けました。掘り出された土管の長さは約16mで地表から1mのところに埋土を版築状にして丁寧に埋められていました。41個分直線ではなく緩いカーブを持ちながら北へ5cmの高低差を持って並んでいたとのことです。

雨水の排水であればわざわざ地中に埋める必要はなく、これほど立派な土管は水落遺跡や石神遺跡で使われる水として利用されたものと推定され、常時流れていたのではなく必要に応じて流されていたのではないかとのことでした。また、この土管の南隣からは木製の桶が出土されていておそらく繋がっていたと推測されています。確証はありませんが(接合部分は未発掘)もし繋がっていれば水圧を上げて水の勢いを強めるためにあえて内径の細い土管にしたとも考えられます。更に一行は南に向いて歩き水田畦畔が一段と下がった地点に立ちました。この地点は飛鳥京の北限となる大溝の出土地点で、飛鳥川方面に続くことから飛鳥京の飛鳥川へと流す排水溝であったと思われます。
次に、最近調査された飛鳥京の発掘現場に立って、新聞などで注目された岡本宮の塀の発見にかかわる興味深いお話を伺いました。発見された塀跡は、後の時代の宮殿建物が主軸を真北にしているのに対して、舒明天皇の岡本宮は東から北西方向に約25度振っているという特徴があります。周辺の地形が北西方向へ傾斜しているため、その自然地形に沿うように約35mにわたり検出されています。また火事で焼けた岡本宮を裏付けるように焼け土も検出されています。

この方角に関連して西光先生は、岡大字の地形を眺めてこのような方角となっている道や畦畔が何か所かに見受けられると説明されました。続いて飛鳥池遺跡のある西側の尾根、現在通っている県道下の水田より見つかった木樋の発掘された場所へ移動しました。この木樋は約50年前の調査で発見され、六角形をしています。検出された樋の長さは4.4m(さらに北北東に延びると思われる)にわたり検出され、伸びている方角は、真北ではなく真北より東に振っていて、6世紀末のものと推定されています。この樋の材質はわかりませんが、報告書によると大きな丸太を半分にして三辺を作り、中をくり抜き一つに合わせたものだとされています。またこの木樋の近くの小字カナヤと呼ばれているところに井戸があります。横1m、奥行き90㎝花崗岩の切り石でできた立派な井戸があり、今でもカナケ(鉄分を含み井戸の周りが茶色くなっている)を含んだ鉄サビ色の泡が水面を覆っています。地元では、あんぐう(行宮)井、または安居井と言われているようです。

ここから北を向いて進み、西光先生自身が発掘を担当された飛鳥井の回廊の雨落ち遺跡に立って説明を受けました。この溝は、1m下で検出され、室生安山岩(榛原石)を板状にした溝でした。特に南からこの飛鳥寺周辺の地形を見ていると飛鳥京から伸びてくる傾斜地形を蘇我氏が飛鳥寺を建てるために広い範囲で真っ平に造成して建てたことが容易に想像されます。また、今に残っている畦畔や道は、中門、南門、東西の回廊のあった場所を示すかのようにはっきりとした痕跡を残しています。

飛鳥時代には東南方向から北西方向に伸びる傾斜地からの雨水の排水対策はしっかりと取られていたと考えられます。飛鳥京の北限で見つかっている大溝、水を供給した土管など全容はまだまだ不明な点も多いですが、飛鳥寺の寺域周辺の真神原と呼ばれていた土地の開発に伴う排水機能や水時計や石神遺跡の須弥山石などに水が供給されていたことを想像するだけでもわくわくしてきます。

全参加者を満足させる西光先生の解説と重厚な価値ある資料を準備していただき、参加者は充実感をもてた貴重なフィールドワークとなりました。

夏期講座 「やきものを楽しむ」

夏期講座 「やきものを楽しむ」

講師 脇田 宗孝先生 令和5年8月27日(日)

夏期講座の魅力ある講座の一つで「参加者がそれぞれのやきものを持ち寄りその一品にかかわる豊富な話」を脇田先生にしていただく講座です。
当日は11名の参加で楽しくわかりやすい、ためになるお話を聞くことができました。
先生は最近発掘された藤原京の瓦を焼いた日高山瓦窯について話されました。瓦はサンスクリット語の「カパラ」が中国に入って「かわら」になったと話され、先生自身が持ち込まれた大官大寺の丸瓦と軒平瓦の現物を実際に手に持ってその重さを体感しました。瓦の蓮華紋はインドが発祥でギリシャに伝わり、シルクロードで中国へ、そして朝鮮半島の百済に伝わり百済の聖明王が日本に伝えたとのこと。その他窯の種類(穴窯と平窯)や瓦の作り方、水漏れのない丈夫な瓦にするための炭化の話などの興味深いことを多く教えていただきました。
後半は参加者が持ち寄った「やきもの」について一つ一つ丁寧に解説していただきました。
・青白磁の器については、ルーツは1000年前の中国「景徳鎮」で日本の九州に伝わり日本全国に広がったこと。指でたたくと金属音がするほど高温で焼成されていて還元という焼き方で白くなるし、酸化するとベージュ色になるとのことです。
・藏に眠っていた60㎝にもなる赤色の柄絵がある「伊万里焼大鉢」については、江戸時代中期~明治初のものとされ、口縁が波打つ特色を持っています。1800年年代に東インド会社が日本との取引で荷物を運び、その帰りの便で好んで焼き物を購入して本国に持ち帰ったとのことです。その際箱詰め用の緩衝用として浮世絵を(くしゃくしゃに丸めたかかどうかはわかりませんが)使用していた」と話され、特にゴッホは浮世絵を見て刺激を受け、自分の作品に影響を受けたとのことです。
・加賀藩の第12代”大樋長左衛門”のおうす茶碗の名品については、仕覆(茶碗を入れる袋)もあって貴重なお宝であるとされました。
以上のように大変興味深いお話を聞くことができましたが、残念ながら今年度で「やきものを楽しむ」講座は終了となります。約40年以上の長きにわたってかかわっていただいたことに感謝申し上げるとともに厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。

文化講座 第二回 古文書講座

 

第二回 古文書講座 令和5年8月26日(土)

講師 安田 真紀子先生

第二回古文書講座は19名の方が受講され『西国三十三所名所図会』の「浄御原」(きよみわら)から「石舞台」まで読み解きました。「浄御原」のところでは「浄御村」(じょうごむら)を後世に上居(じょうご)に書き誤ったとしています。そのため江戸時代の人はここを飛鳥浄御原宮と推定したようで、なぜ、ここが「浄御原宮」?と疑問を持つところですが、現在では、大字岡の「エビノコ郭」を含め飛鳥京にあったとされています。そして浄御原宮の近くにある「石舞台」は天武天皇を仮に葬った墓と推定しています。そうした説をこの作者は記していて大変興味深いです。また「石舞台」の字も古文書では「無」と書かれていて、現在の「舞」の字ではありません。いつの時代に「舞」の字になったかは不明ですが、農村芝居がさかんになった頃に「無」の字が「舞」に変わったと推測されている研究者もいます。古文書では漢字の違いには意味がなく、音が同じであれば漢字にはこだわらなかったようです。
興味を持たれた方は、あと一回だけですが参加してください。
文化財課へお申し込みください。

令和5年度夏期講座 切り絵講座・絵手紙講座

切り絵講座

講師 森脇新一郎先生 7月22日(土)、29日(土)

初日16名、二回目のみの参加合わせて17名の参加があった。切り絵は花や人物など、たくさんの資料の中から気に入った絵柄を選び、それをコピーして黒画用紙に貼り付けて専用のカッターナイフで切り抜いていくものである。微妙な力加減と根気のいる作業だが、参加された皆さんは経験者もおられ、とても熱心に取り組んでおられた。

 

絵手紙講座

講師 愛水香薫先生 8月4日(金)

3名の参加があった。絵手紙は画仙紙の葉書に墨で輪郭を描き、顔彩という日本画の絵の具で彩色をして、余白に文を添えるものである。夏らしい素材がたくさん用意され、また自分で用意した花や野菜などを思い思いに描いておられた。
絵手紙のポイントは、子供のように無心になって楽しく笑顔で、画面からはみ出すくらい大きく描くのがよいそうである。

文化講座報告

古文書講座
 講師 安田真紀子先生
第1回令和5年6月24日

古文書にチャレンジ『古文書で読み解く飛鳥』

「くずし字の読み方を基礎から学びます」をモットーに、第1回講座が実施されました。参加者は21名で初回から熱心に取り組まれていました。文化講座として8年目を迎えています。講師は安田真紀子先生(奈良からくりおもちゃ館館長・奈良大学講師)です。先生からは”読みとるのはなかなか難しいので、わからない所があってもあきらめないで、その箇所を空けてわかる文字だけで読み進めばよい”とアドバイスをいただきました。
今年度は『西国三十三所名所図会』を教材としています。特に「飛鳥」のことが記されている箇所から学習を進めています。
『西国三十三所名所図会』は、1853年出版された西国にある観音巡礼を巡る旅のガイド書で、行く道中の名所の伝承、遺跡も収録して単なる名所図会で終わっていません。
今回の飛鳥にかかわる部分は、具体的には談山神社から明日香へ下りてくる気都和気神社から始まりました。ここから明日香を一通り巡り、石舞台や「くすりや」などおなじみの場所が出てきます。次回は石舞台古墳の箇所からです。
私たちが日常に接している名所、史跡を江戸時代の人の目で飛鳥の姿がどう映っているかを読み解きます。
興味のある方は、どしどし参加してください。2回目は8月26日(土)、3回目は11月25日(土)です。いずれも13時30分から、場所は中央公民館です。文化財課へお申し込みください。

夏期講座報告

篆刻講座を受講して
 講師 喜多芳邑先生
令和5年7月1日(土)・7月4日(火)

毎年夏期講座のトップを切って実施される篆刻講座(石に文字を彫ろう)講師の喜多芳邑先生の軽妙な語り口の指導の下、
準備していただいた各自好みの文字を彫りはじめると、ググッ ググッと小気味よい音が周りから聞こえてきます。
『自分だけの印を作る』出来上がりを思いながらの作業は集中力のみですが、これが楽しみでもあります。
開始から二時間ほどして、仕上がりを見ていただき手直しをしてもらって出来上がり。緊張が喜びに変わります。
受講のきっかけは、文化協会の拓本講座に参加したこと。作品に押す落款印を作りたいとこの講座に飛びつきました。
奥深い行為ですので、なかなか上達しませんが夏の楽しみとして続けています。喜多先生、境山先生に感謝です。(受講生より)

   

あすか物語
 講師 石田誠克先生  令和5年7月8日

31名の参加者でした。石田先生は古郷明日香村を愛し、退職後は村に貢献したいとボランティアガイド、老人会会長、ラジオ
FM大和で村のPRなど幅広く活躍されています。なかでもガイドの様子を楽しく愉快に飽きさせない話術は最高でした。
聖徳太子の謎、10人の忍者が太子の周りでサポート。高松塚古墳の被葬者の21人の呪いなどは興味津々でした。その活動は、ご自身の豊かな余生であり、後期高齢者のお手本です。今後の活躍を期待します。

 

懐かしの歌を歌おう
 講師 井上澄子先生 令和5年7月18日

厳しい暑さにもかかわらず20名の申し込みがあり、非会員の方が11名参加されました。勝川京子先生の進行のもと、自分の歌いたい曲名を次々にリクエスト、井上先生のピアノ演奏に合わせて皆で歌いました。曲は「ほたる」に始まり、「銀色の道」「旅愁」「今日の日はさようなら」など20数曲を歌いました。楽しそうにのびのびと歌われ、終了後「楽しかった。来年もぜひ参加したい」と大変好評でした。

 

今年度最終のフィールドワーク

藪の中を踏み分けながら…満足感にあふれるフィールドワークでした

令和4年度第3回フィールドワークは、令和5年2月11日に真弓崗周辺の古墳‌を巡りました。
「古墳を探し求めたが場所がわからなかった」との声を聞き何としてでも行きたいという強い希望に応える形で、西光先生のご好意で実現しました。
先生はこの古墳の発掘を担当されましたがその調査から17年が経緯しているため現地が激変しています。

その為、西光、辰巳両先生は安全を期して、ルート確保の下見までしていただきました。
参加者も軍手、丈夫な靴という”重装備”でした。

見学コースは、カズマヤマ古墳⇒マルコ山古墳⇒真弓ミヅツ古墳⇒真弓テラノマエ古墳の順に歩きました。中央公民館からバスで大字地ノ窪の西はずれの星野リゾート建設予定地を横に見ながら先ずはカヅマヤマ古墳を見学しました。
最初にこの古墳の築造に伴うそそり立つ背面カットを屋根上よりのぞき込んで実感したあと、古墳南側の地点から藪に入り込みました。
現状は手入れがされていないため竹が繁茂し、地元の人ですら行けそうにないと話されるほど大変なコースでした。
ここに35人が訪れるのですから、静かな山里をお騒がせしてしまいました。

明日香村で初めての磚積石室を発掘

先ずはカヅマヤマ古墳を見学しました。
現状は竹藪の中にわずかに盛り土が残っているだけで教えてもらわなければわかりません。
発掘調査によると墳丘は東西に延びる丘陵の南側斜面に東西100m以上、南北60m、高さ8~10mの範囲にわたって削り出した後、平坦に造成して版築によって盛り土を行います。
背面カットの規模は現欽明陵に匹敵する規模です。
墳丘は東西約24m、南北約18m以上、高さ4.2m以上の二段築盛の方墳と推定されています。

埋葬施設は吉野川の結晶片岩で築かれた南に開口する磚積みの横穴式石室です。
盗掘や開墾のため石室は奥壁と右側壁面の一部が残されているだけで、復元による推定規模は、全長6.8m、玄室は長さ3.2m、幅1.8mを測ります。

玄室床面には30✕20㎝大の切り石が敷き詰められていて、その上には棺を乗せる棺台が設けられていました。
そして床面以外は全ての壁面に漆喰が塗布されています。
また石材の接合面にも漆喰が使用されています。
残っていた棺台は長さ2.3m、幅1.8m、高さ35㎝の結晶片岩を積み重ねて漆喰を塗りこめています。
また棺台周辺の床石は水平ではなく各壁面に向って勾配がつけられていて、排水機能を備えていたと思われます。

また漆片が出土していることから漆喰のお棺が置かれていたようです。
この古墳は明日香村で初めての発見の磚積石室です。
築造時期は七世紀後半と考えられています。

推定マグニチュード7.9~8以上の揺れでカヅマヤマ古墳が壊れた?
激震の痕跡見つかる

地震ですべり落ちた石室壁(現地説明会資料より)

地震ですべり落ちた石室壁(現地説明会資料より)

この古墳の発掘で特に注目されたのは、大きな地震による地滑りの後が見つかったことです。
墳丘中央部から南側にかけて約2mにわたって大きく崩れ落ちています。
地震特定の根拠は、12世紀代に盗掘された痕跡が見つかり、その後に地震による崩れがあったことがわかりました。

盗掘された時期の後に石室を壊すほどの大きな地震を調べると、1361年8月3日発生の”正平の南海地震”があることがわかりこの地震ではないかと考えられています。
この地震は揺れが10数分間続いたと言われ、村内の発掘調査でも酒船石遺跡の石垣の倒壊、高松塚古墳の石室や墳丘の亀裂、キトラ古墳なども被害にあった痕跡が検出されています。

 

マルコ山古墳の被葬者は、天武天皇の子 川島皇子か?

マルコ山古墳

マルコ山古墳    

続いて、マルコ山古墳に移動しました。
マルコ山古墳が注目されたのは高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されてからです。
この古墳が立地や形態が高松塚古墳と似ていることから、がぜん第二の壁画古墳ではないかと騒がれました。
この古墳の調査で盗掘孔を使い、日本考古学上初のファイバースコープによる調査が導入されて、調べた結果壁画が存在しなかったため、キトラ古墳の調査へと移っていきます。
四次にわたる調査の結果、墳形は多角形(六角)とされ、23.6mの規模があり、埋葬施設は高松塚古墳と同じ凝灰岩の切石の横口式石槨でした。

石室の内寸は全長2.71m、幅1.28m、高さ1.35mあり、石槨内は厚さ2~7㎜の漆喰が塗られ漆喰木棺の破片が沢山ありました。
被葬者を巡っては、太刀の飾り金具や出土した人骨が年齢30~40代の男子と推測され、石棺の形式などの事実から、691年に亡くなった川島皇子ではないかとする説が有力です。

 

人骨からの香しいにおい…においの正体は

また特に注目すべきことは、出土した人骨から優雅な匂いが漂っていたということです。
スパイスの専門家の分析によると、これは竜脳という香気を発する東南アジアで採れる美しい白色結晶性の顆粒といいます。
遺骸に付けられていたのではないかといわれています。
人骨から優雅な匂いとはぞくぞくする発見です。
続いて、眞弓ミヅツ古墳を近くから見学しました。
現状はみかん畑の斜面にあって、教えていただけなければ古墳とはわからない状態です。
周辺には漆喰の付着した結晶片が散乱しているとのことです。
発掘調査はまだされていません。

 

吉野川から約3万個の石(結晶片石)が運ばれて作られた真弓テラノマエ古墳

真弓テラノマエ古墳の現状(赤い服の人の前あたり)

真弓テラノマエ古墳の現状(赤い服の人の前あたり)

最後に、真弓テラノマエ古墳を見学しました。
この古墳はカヅマヤマ古墳から連なる低い丘陵の東側にあって、現状は竹のブッシュになっています。
明治時代に古墳の石材が取られ、その後畑地として開墾されていて、墳丘としての明確な高まりはありませんでした。
しかし西光さんらが歩いて調査された際に、ゆるやかな斜面に漆喰の付着した結晶片石や平瓦が散乱していたので古墳があることがわかりました。

この古墳がある丘陵は、東西70m、高さ12mにわたり背面をカットしている地形です。
現状を見る限り古墳とは全くわかりません。
周辺地域と比べわずかな地形の起伏から石室の方向や大きさを推定して発掘調査が実施されました。
発掘の結果、埋葬施設は奥壁と右側壁を残すのみでしたが、結晶片岩による磚積の横穴式石室で、玄室幅は約1.7mと推定されています。

カヅマヤマ古墳との共通点が多く見られますが、玄室床面全体に瓦が漆喰で積み重ねた棺台(高さ12㎝)が置かれていました。
また、石室だけでなく墳丘の斜面にも大量の結晶片岩が使用されていて約3万枚が使われていたと推定されます。

 

テラノマエ古墳からマルコ山古墳へ続く4基は計画的に配置された公葬地

これらの古墳が立地している四つの古墳の位置と周辺地形や埋葬施設の状況から興味深いことを教わりました。

先ずこの四つの古墳は、建造にあたって丘陵の南斜面に造られ背面を100mから70m深さ8~12mにも及び削りだして造られている終末期古墳の特徴が伺われます。
しかも東から真弓テラノマエ古墳(7世紀前半)⇒真弓ミヅツ古墳(7世紀中)⇒カヅマヤマ古墳(7世紀後半)⇒マルコ山古墳(7世紀末)へと築造が順に行われていると推測されています。
またその特徴として・真弓テラノマエ古墳には、飛鳥寺創建時瓦が棺台として使用されていることや磚積石室という特異な石室である

  • これらの古墳が古代の幹道であった紀路の近くである
  • キトラ古墳をはじめとして檜隈地域を望む位置にある

こうしたことから被葬者の性格がうかがえるということです。
そして出土瓦からみられる使用瓦数はかなりの数が想定され、古墳築造には約三万人という人数がかかわったのではないかと思われます。
牽牛子塚古墳でも築造に約三万人が動員されたと推定されていることから、テラノマエ古墳の被葬者は相当高い地位の有力者であったことが想定されています。
また「真弓テラノマエ古墳や眞弓ミヅツ古墳、カヅマヤマ古墳がなければ、マルコ山古墳は築造されていなかった」といわれるほど密接な関係が重要な点です。

 

眞弓地域に眠るのは王族クラスの系統に繋がる人物か?

真弓テラノマエ古墳の背面傾斜

真弓テラノマエ古墳の背面傾斜

「渡来系のしかも王族クラスの系統に繋がる人物でないか」また「王権内の政治機構内における重要人物ではないか」との大胆な興味あるお話を伺いました。
飛鳥の造墓地として墓造りが許されている土地(公葬地)は、公にしかも計画的に古墳が作られる土地でした。
公葬地としては、現欽明陵から東へ天武・持統陵へと続く今城谷がありますが、それと並ぶのがこの眞弓地域です。
しかもこの四つの古墳は血縁関係で結ばれた一族のものである推定されています。
これらの古墳を見学して、帰りのバスに乗車したのが4時30分でかなり予定をオーバーしました。
しかし参加者の皆さんは個人的にこれらの古墳を見学したかった方々がほとんどで、しかも大変重要な立地のもとに造られていることを実感できて大変満足感にあふれる表情をされていました。

 

 

第二回 フィールドワーク

飛鳥京を囲んでいた掘立塀跡沿いを歩く

今回のテーマは「飛鳥時代の宮殿や建物の痕跡が現在の水田や畦畔にどれだけ残っていて辿れるか」です。
その痕跡を求めて7月17日(日)に33名の方が集合しました。
当日は酷暑の中、西光慎二先生、辰巳俊輔先生の案内のもとエビノコ郭から飛鳥京(主に後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)、
飛鳥京の北限の地、外郭東辺の地を巡りました。

飛鳥京を一望できるビューポイントに立つ ▻▻▻

先ずは二組に分かれて、全員で役場西棟の屋上に登り飛鳥京を望みました。
この屋上は京の全体を望むことの出来る唯一の場所です。
閉庁日でしたが文化財課の計らいで実現しました。この屋上のある地点が飛鳥京の中心となる位置です。飛鳥京の西半分は飛鳥川の氾濫で削られていますが、東側の発掘調査の成果から当時の姿が復元できます。
飛鳥京の内郭と外郭の存在そして内郭に南と北の区画があったことがわかっています。
屋上からタブレットを向けるとバーチャルで飛鳥京にあった建物群や当時あった川原寺などを見ることができました。
タイムスリップした感覚で、みなさんは大変喜ばれていました。

 

飛鳥京の内郭を囲む掘立塀の角を歩き、
前殿や正殿跡に立つ ▻▻▻

続いて郵便局裏の道に移動しました。
この地点では内郭を囲む掘立柱列が発掘され、しかも柱が旧地表で切られた状態で残っていました。
多くの場合、柱は抜き取られますがここでは直径35㎝の柱が約1m残っていました。屋根のついた立派な塀であったことがわかりました。
またこの郵便局裏の川はかつて内郭の南にあたり大溝のあった場所を流れています。
この地点から道なりに進み大きな一筆となっている水田で説明を受けました。
この場所から内郭の南門跡が発見されています。この南門につながる廊下も判明し、この廊下跡に沿って水田の畦が続いています。さらに北へ進み現在一段低くなったところにあったのが前殿です。
建物の周辺には一面にこぶし大の石が敷き詰められていました。この前殿と更に北側の正殿との間には規格のために三時期にわたる柵が設けられていることが発掘調査で判明しました。
さらに北に進み南の正殿が発見された場所で説明を受けました。
この南の正殿周辺の発掘では人頭大の石が敷き詰められていてその様子は”飛鳥一の美しさ”との賛美の声が上がるほどです。
この二つの建物の敷石の違いは南にある前殿は政務を行う公的な性格の建物で、北にある正殿は天皇がおられた空間であったのではないかと推測されています。
続いて村道北にある北の正殿に立ちました。参加者からも同じ建物がどうして二つあったのでしょうかとの質問が出されていました。発掘調査によると南北の建物は同規模同構造で柱列も南北で筋が揃っている点から同時期に併存していたのではないかと推測されています。
立派なしかも同じ建物が同時期に南北に並んで建っていたとは驚きの事実です。

さらに道なりに北へ進み、吉野川分水の所で説明を受けました。分水の改修に伴い飛鳥京で最大規模の建物が発見されています。外郭大型建物と呼ばれ東西29.4m南北15mに及ぶ規模です。
丁度大型建物が建っていた範囲を斜めに横切るように分水が流れていて、限られた発掘範囲ではありますが大規模な建物が復元されました。その後、苑池遺跡の休憩所に入って給水とトイレ休憩を取りました。

飛鳥京の北限の地を体感 ▻▻▻

休憩後、さらに北へ進み飛鳥京の北限の地点に立って飛鳥京の範囲を確認しました。
この地点の水田や畦畔は南北幅約10mほど水田の高さが一段下がった状態が見受けられました。また現在でもこの北限に沿うかのように水路が急に西向きに流れを変えています。
またこの地点の発掘調査でも北限となる幅1mの溝跡も確認されています。
飛鳥京の排水を飛鳥川へ流すための基幹水路でもあったと推測されています。

飛鳥京の外郭東辺の掘立塀を歩き
飛鳥宮の年代決定の木簡発見の地に立つ ▻▻▻

次に東に向かって天理教岡大教会の前に移動しました。この教会の工事に伴う発掘調査で飛鳥京の外郭東辺に伴う溝が検出されています。
この溝があった地点から南に伸びる水路とあぜ道を進みました。

上の写真にあるように、この道こそ後飛鳥岡本宮の南北に伸びる外郭東辺塀と溝に沿っています。まさしく飛鳥京の区画が見事に残っています。
この溝に近い民家と駐車場の発掘調査で飛鳥宮の年代決定や天武天皇にかかわる貴重な木簡が発見されています。
特に民家の敷地から発見された大津皇子や大来や大友「辛巳年」(681年)などと記された削りくず木簡は日本書紀との関連で注目されています。というのは書紀の編纂を命じたのは天武天皇でその宮があった浄御原宮の時期の木簡であるからです。
発見当時は書紀作成の基礎資料かと騒がれました。
駐車場の発掘では飛鳥京の確定にかかわる重要な発見の木簡が出土されました。
「大花下」という664年〜678年の間でしか使われなかった冠位を示す木簡であるからです。この木簡は大変有名で知っておられる方も多いと思いますが多くの人は飛鳥京の井戸跡からの出土と思っておられました。歴史上の大発見とも言える木簡群が飛鳥宮外の溝に一括して大量放棄されていたとはまったく想像できませんでした。
そして外郭東辺塀跡に沿ってさらに南へ進み、宮の東南角の地点でまとめを行いました。

▻▻▻ まとめ

宮が遷り宮殿がその役目を終えた時に、建物や掘立塀などの柱や部材は次の宮へ移るために解体されます。
そして宮は廃墟となりいつの時代か水田や畑に変わってしまいます。
その際かつての建物や敷地の形状に沿う形で更に細かく畦畔で仕切り一筆の水田として残ったと思われます。
飛鳥宮の内郭とその周辺の水田の一筆は長方形状となっていてなかでも東外郭の周辺の水田は東西に細長くきれいに並んでいます。飛鳥京が廃墟になってどれくらいの期間で水田になったかは全く不明です。
しかし飛鳥の地形は鎌倉時代からあまり変わっていないとも言われ私達の想像力を更にかきたててくれるフィールドワークとなりました。
毎回参加されている参加者の一人は
「いつもの三倍の値打ちあるフィールドワークでした」と感想を述べられていて今回のフィールドワークの充実感が窺えました。