伎楽『獅子奮迅』を上演

明日香村文化協会 総会より

令和6年5月19日(日)多くの来賓の皆様の出席のもと明日香村文化協会総会が行われました。松村滋子副会長の司会で始まり提案したすべての案件が了承されました。
柏木教育長、松本村議会議長、亀甲県会議員、田中飛鳥保存財団理事から来賓の挨拶がありました。柏木教育長からは本協会が発刊した「繋」やブックレット「豊年橋の謂れ」への取り組みでの労いの言葉と村内の園、小、中学生全員にブックレットを配布してもらっていることについて、文化協会への感謝と称賛の言葉をいただきました。

総会終了後は、明日香村主催で天理大学雅楽部により伎楽『獅子奮迅』が上演されました。伎楽は、612年百済から飛鳥に伝わったとされる無言の仮面劇です。劇の内容は、酔故王が宴会で獅子に酒を飲ませたために獅子が暴れまわりその獅子を落ち着かせるために、笛を吹くなどいろいろしながら最後に牡丹の花をくわえさせて抑えるという展開です。
劇は龍笛、鉦盤、腰太鼓の生の伴奏とともにスムーズに上演されました。20名にも及ぶ出演者の皆さんによるコミカルな軽快な動きに思わずほっとする内容で、伎楽に大変興味を持ちました。狭いスペースと階段があるなど施設面での制約がある中での熱演に大きな拍手が起こりました。

村民への案内は、防災無線だけではありましたが、120名の皆様が鑑賞されました。
伎楽上演後は、天理大学雅楽部総監督佐藤浩二先生と明日香村文化協会境山正甫会長によりますパネルディスカッションが行われました。司会は四天王寺大学講師辰巳俊輔先生により進められました。この中で、伎楽と飛鳥のかかわりについて「伎楽は飛鳥時代に伝えられた劇で推古20年(612年)百済からの渡来人味磨之が習得したとあり、現在の豊浦に住まわせた少年たちに伎楽を習わせた」と記録があると紹介されました。川原寺、橘寺に伎楽上演の一団が置かれていたそうです。
明日香村での現時点での取り組みについて佐藤先生は「2年前から明日香小の3~6年を対象とした出前授業を行い、お面作りから始めた。子ども達だけで演じる機会も2度ほどあり経験も積んだ。」として村内での取り組みの状況も話されました。佐藤先生は「練習では心配する面もあったが本番では上手にできて驚いた」また「明日香小の子どもは、積極的に自分でこの役をやってみたい、やりたいと名乗りを上げて自分たちの台本で演じてくれた」と積極的に子ども達が取り組んでいることを話されました。最後に今後の伎楽のあり方について境山会長は「明日香で独自のテーマとして、伎楽を作りたい。村内には龍笛などを演奏できる人材もある。将来的に伎楽団を作って大人が何らかの形で協力して伎楽を作り上げる夢を持っている」と結びました。

ブックレット「豊年橋の謂れ」を発刊

明日香村文化協会が取り組むブックレットの第三集「豊年橋の謂れ」を発刊しました。
豊年橋と呼ばれる橋は、近鉄吉野線飛鳥駅に近い国道169号線沿いを流れる高取川にかかる明日香村大字平田から大字越へ通じるところにあります。この橋の側には、『ほうねん橋の碑』と彫られた大きな石碑が建っています。現在豊年橋はコンクリート製の橋ですが、もともとはこの石碑が橋として川に架けられていました。
この物語は、この橋を架けるにあたって心血をそそいだ旧越村(大字越)の服部宗賢が主人公です。
宗賢はいまから約200年前の江戸時代の人で高取藩(現在の高取町、明日香村、橿原市の一部を治めていた)のおかかえのお医者さんでした。名医として名をとどろかせた人で、村の人が困っているのを放っておくことができませんでした。
宗賢は私財を投じて村人に呼びかけて橋を架けたのでした。この橋が完成してからは大雨が降っても橋が流されることがなくなり、豊作の年が続いたので豊年橋と呼ばれるようになったとのことです。
この『豊年橋の謂れ』にはモデルとなった絵本があります。橿原市在住の野田淑子さんがお孫さんのために色鉛筆で手作りされた和綴じの絵本です。和紙に丁寧に描かれており文章は筆で書かれています。
ストーリーは戦前の小学校の副読本に基づいていますが、挿絵はありませんでした。そこで野田さんは図書館に足しげく通い多くの書籍を参考にしながら見本となる人物、場面を探し出して描かれました。登場人物の表情や高取城の全容、医術にかかわる場面など細部にわたって、細やかに優しい色使いで丁寧に描かれています。
紙芝居制作委員会では、ブックレットにするに当たり小学校中・高学年の児童にもわかりやすくするために紙芝居の原文をやさしい言葉に改めました。ただ物語の展開上、むずかしい語句であっても歴史的な語句についてはそのままにして、横に説明文をつけています。
なお、表紙の題字は、日本画家の烏頭尾精先生の協力を得ました。また装丁については同じく日本画家の烏頭尾忠子先生の手を煩わせました。
文化協会の会員の皆さんと明日香村内の小・中学生全員に配布しました。

現在の豊年橋(野田さんの絵本より)

令和6年 新年互礼会開催

1月21日(日)に文化協会と伝承芸能保存会による新年礼

例会が中央公民館において開催されました。コロナ禍を経て昨年から半日の開催となり、主に『伝承芸能の初演』の集いが中心の内容となっています。
開会にあたり、能登半島地震で犠牲となられた方々のご冥福を祈って黙とうを捧げました。
先ず「明日香の響き保存会」による八雲琴の初弾きが行われ、厳かな雰囲気の中、ホールに響く琴の音に聞き入りました。
演奏後の開会挨拶では、境山会長が今年の干支、辰にかかわる龍の話や、文化協会設立46年を迎え、創立の精神である「明日香の文化の発展に寄与する」ことを引き継いで、これからも活動に努めていくことを述べました。
さらに50周年を目指して「繋」補訂版に取り組んでいることを報告しました。
来賓を代表して森川裕一村長、松本年史村会議長、山本進章県会議員、飛鳥保存財団の田中充常務理事の方々から祝辞をいただきました。
出演は、南無天踊り(一部から五部までの全て)から始まり、新たに加入した小学生3名による鈴の演奏に大きな拍手が起こりました。また万葉朗唱にも新たなメンバーが加わりホールに響き渡る透き通った声で万葉集を披露していただきました。
最後に伝承芸能保存会の一年間の活動を紹介するDVDを鑑賞し、脇田初枝伝承芸能保存会会長から閉会の挨拶をいただき、全ての日程を終えました。

 

 

第3回古文書講座 

第3回古文書講座 報告

今年度の最後となる古文書講座が11月25日(土)に実施されました。今回は、勾池から天徳山龍福寺までを読み解きました。講座が始まるまでに前もって担当の方がホワイトボードに読み下した分を書いておきます。それを参加者が講座が始まるまでに写したりもします。ホワイトボードをもとに、安田先生が指導(添削)と解説をされます。

今回は、勾池の箇所からです。勾池、真名池、島の宮が出てきます。そして勾池や真名池が同所にあるとしています。万葉集には「上の池」「下の池」が詠われていますが、勾池や真名池との関係はわかりません。次に南淵請安先生の墓のことも詳しく出てきます。石碑があって明神塚とも稲淵明神としても崇められているとして、例年十一月十六日にお祀りしていると記しています。また墓の傍らに「一畝」(約30坪)の水田があって村の中から順番に耕作して、これをお供えとしているとあります。有名な「乙巳の変」の中大兄皇子と中臣鎌足が請安先生に周孔の教え(儒教)を学びに行くすがら大事を図ったと記しています。
続いて、天徳山龍福寺が出てきて、大日堂の側にある「竹野王の石塔婆」のことも記されていて「文字剥滅して文明ならず」とすでにこの時には剥落が激しかったことがわかります。ただ下の段にあるかろうじて読める阿育王のことや年号の天平勝宝〇〇・・・従二位〇〇〇・・竹野王・・・と記しています。

次の挿図は江戸時代の石舞台の様子で、すでに石室の石がむき出しの状態です。ここでは「天武帝 殯古趾」とあります。そして「伝言 當地を島の庄といへるは古への嶋の宮の古跡ならんか」と記しています。続いて「橘の島の宮 勾池の嶋の宮・・」とあるようにここでは島の宮は橘の一部であったことがわかります。また挿図の真ん中の下あたりに記されている文には、「是石ばしを渡りて山の方にいたれば じゃうご村にいづるなり」とあります。上居へ行く主たる道は、現在とは違っていて大変興味深いものとなっています。

受講者で、この石橋の架かる川は唯称寺川ではないかと推測されました。またどこから俯瞰した挿図かと話題になりましたが、大字尾曽の 徳院のある方角を踏まえれば城山と呼ばれる石舞台の北側の丘陵から見て東南から南そして西南の景色をもとに描かれていると思われます。しかし先生によると方角や距離等正確ではないところがあるとのことです。身近な風景だけにいろいろと意見が出され、想像するだけでも面白い講座です。

令和5年 第一回フィールドワーク

第1回 フィールドワーク

今年度のテーマは『明日香村埋蔵文化財展示室の遺物(遺跡)からひもとく飛鳥の歴史』です。それぞれの出土地点(遺跡)を訪れ、‘‘出土遺物(遺跡)が語りかける歴史的情景を読み解く‘‘に基づいて、個別テーマ「飛鳥時代の土管から見えてくる真神原周辺の排水機能とは」の課題を解決するために探訪しました。講師の西光慎二先生の説明には私たち参加者の知的好奇心を十分に満たすものとなりました。
令和5年12月3日(日)あすか夢の楽市の駐車場に40名(内非会員6名、申込者数は過去最高の50名)が集合しました。西光先生の案内のもと、水落遺跡から飛鳥寺西門、飛鳥京の北限の地、飛鳥京(最近調査された発掘現場)、飛鳥寺南側の木製の桶出土地点から飛鳥寺の東雨落ち溝地点を歩いて巡りました。

先ずは、埋蔵文化財展示室で今回のテーマにかかわる土管を見学しました。この土管は飛鳥寺の西で出土した瓦質の‘‘土管‘‘です。直径20cm長さ約40cmあります。狭い口を広い口に入れて連なるように埋められていて、現物の迫力に「まさか瓦でできているとは」との驚きの声が上がっていました。
展示室を出て先ずは水落遺跡で説明を受けました。この水時計で使われた水は南の飛鳥寺西方面から水を引き込み利用していたと推測されるとの説明を受けました。特に当時出土した細い銅管を復元したものに全員が見入っていました。流れる管を小さくすることで水圧を上げる目的があるとのことでした。続いて‘‘アマダレ‘‘と呼ばれる飛鳥寺の築地塀に推定されている地点を通り、飛鳥寺西門の雨落ち溝の側にも土管が埋められていてその場所に立って説明を受けました。すぐ横に「入鹿の首塚」があります。そこから南へ道沿いに移動して展示室にある土管の出土地点に立って詳しく説明を受けました。掘り出された土管の長さは約16mで地表から1mのところに埋土を版築状にして丁寧に埋められていました。41個分直線ではなく緩いカーブを持ちながら北へ5cmの高低差を持って並んでいたとのことです。

雨水の排水であればわざわざ地中に埋める必要はなく、これほど立派な土管は水落遺跡や石神遺跡で使われる水として利用されたものと推定され、常時流れていたのではなく必要に応じて流されていたのではないかとのことでした。また、この土管の南隣からは木製の桶が出土されていておそらく繋がっていたと推測されています。確証はありませんが(接合部分は未発掘)もし繋がっていれば水圧を上げて水の勢いを強めるためにあえて内径の細い土管にしたとも考えられます。更に一行は南に向いて歩き水田畦畔が一段と下がった地点に立ちました。この地点は飛鳥京の北限となる大溝の出土地点で、飛鳥川方面に続くことから飛鳥京の飛鳥川へと流す排水溝であったと思われます。
次に、最近調査された飛鳥京の発掘現場に立って、新聞などで注目された岡本宮の塀の発見にかかわる興味深いお話を伺いました。発見された塀跡は、後の時代の宮殿建物が主軸を真北にしているのに対して、舒明天皇の岡本宮は東から北西方向に約25度振っているという特徴があります。周辺の地形が北西方向へ傾斜しているため、その自然地形に沿うように約35mにわたり検出されています。また火事で焼けた岡本宮を裏付けるように焼け土も検出されています。

この方角に関連して西光先生は、岡大字の地形を眺めてこのような方角となっている道や畦畔が何か所かに見受けられると説明されました。続いて飛鳥池遺跡のある西側の尾根、現在通っている県道下の水田より見つかった木樋の発掘された場所へ移動しました。この木樋は約50年前の調査で発見され、六角形をしています。検出された樋の長さは4.4m(さらに北北東に延びると思われる)にわたり検出され、伸びている方角は、真北ではなく真北より東に振っていて、6世紀末のものと推定されています。この樋の材質はわかりませんが、報告書によると大きな丸太を半分にして三辺を作り、中をくり抜き一つに合わせたものだとされています。またこの木樋の近くの小字カナヤと呼ばれているところに井戸があります。横1m、奥行き90㎝花崗岩の切り石でできた立派な井戸があり、今でもカナケ(鉄分を含み井戸の周りが茶色くなっている)を含んだ鉄サビ色の泡が水面を覆っています。地元では、あんぐう(行宮)井、または安居井と言われているようです。

ここから北を向いて進み、西光先生自身が発掘を担当された飛鳥井の回廊の雨落ち遺跡に立って説明を受けました。この溝は、1m下で検出され、室生安山岩(榛原石)を板状にした溝でした。特に南からこの飛鳥寺周辺の地形を見ていると飛鳥京から伸びてくる傾斜地形を蘇我氏が飛鳥寺を建てるために広い範囲で真っ平に造成して建てたことが容易に想像されます。また、今に残っている畦畔や道は、中門、南門、東西の回廊のあった場所を示すかのようにはっきりとした痕跡を残しています。

飛鳥時代には東南方向から北西方向に伸びる傾斜地からの雨水の排水対策はしっかりと取られていたと考えられます。飛鳥京の北限で見つかっている大溝、水を供給した土管など全容はまだまだ不明な点も多いですが、飛鳥寺の寺域周辺の真神原と呼ばれていた土地の開発に伴う排水機能や水時計や石神遺跡の須弥山石などに水が供給されていたことを想像するだけでもわくわくしてきます。

全参加者を満足させる西光先生の解説と重厚な価値ある資料を準備していただき、参加者は充実感をもてた貴重なフィールドワークとなりました。

夏期講座 「やきものを楽しむ」

夏期講座 「やきものを楽しむ」

講師 脇田 宗孝先生 令和5年8月27日(日)

夏期講座の魅力ある講座の一つで「参加者がそれぞれのやきものを持ち寄りその一品にかかわる豊富な話」を脇田先生にしていただく講座です。
当日は11名の参加で楽しくわかりやすい、ためになるお話を聞くことができました。
先生は最近発掘された藤原京の瓦を焼いた日高山瓦窯について話されました。瓦はサンスクリット語の「カパラ」が中国に入って「かわら」になったと話され、先生自身が持ち込まれた大官大寺の丸瓦と軒平瓦の現物を実際に手に持ってその重さを体感しました。瓦の蓮華紋はインドが発祥でギリシャに伝わり、シルクロードで中国へ、そして朝鮮半島の百済に伝わり百済の聖明王が日本に伝えたとのこと。その他窯の種類(穴窯と平窯)や瓦の作り方、水漏れのない丈夫な瓦にするための炭化の話などの興味深いことを多く教えていただきました。
後半は参加者が持ち寄った「やきもの」について一つ一つ丁寧に解説していただきました。
・青白磁の器については、ルーツは1000年前の中国「景徳鎮」で日本の九州に伝わり日本全国に広がったこと。指でたたくと金属音がするほど高温で焼成されていて還元という焼き方で白くなるし、酸化するとベージュ色になるとのことです。
・藏に眠っていた60㎝にもなる赤色の柄絵がある「伊万里焼大鉢」については、江戸時代中期~明治初のものとされ、口縁が波打つ特色を持っています。1800年年代に東インド会社が日本との取引で荷物を運び、その帰りの便で好んで焼き物を購入して本国に持ち帰ったとのことです。その際箱詰め用の緩衝用として浮世絵を(くしゃくしゃに丸めたかかどうかはわかりませんが)使用していた」と話され、特にゴッホは浮世絵を見て刺激を受け、自分の作品に影響を受けたとのことです。
・加賀藩の第12代”大樋長左衛門”のおうす茶碗の名品については、仕覆(茶碗を入れる袋)もあって貴重なお宝であるとされました。
以上のように大変興味深いお話を聞くことができましたが、残念ながら今年度で「やきものを楽しむ」講座は終了となります。約40年以上の長きにわたってかかわっていただいたことに感謝申し上げるとともに厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。

文化講座 第二回 古文書講座

 

第二回 古文書講座 令和5年8月26日(土)

講師 安田 真紀子先生

第二回古文書講座は19名の方が受講され『西国三十三所名所図会』の「浄御原」(きよみわら)から「石舞台」まで読み解きました。「浄御原」のところでは「浄御村」(じょうごむら)を後世に上居(じょうご)に書き誤ったとしています。そのため江戸時代の人はここを飛鳥浄御原宮と推定したようで、なぜ、ここが「浄御原宮」?と疑問を持つところですが、現在では、大字岡の「エビノコ郭」を含め飛鳥京にあったとされています。そして浄御原宮の近くにある「石舞台」は天武天皇を仮に葬った墓と推定しています。そうした説をこの作者は記していて大変興味深いです。また「石舞台」の字も古文書では「無」と書かれていて、現在の「舞」の字ではありません。いつの時代に「舞」の字になったかは不明ですが、農村芝居がさかんになった頃に「無」の字が「舞」に変わったと推測されている研究者もいます。古文書では漢字の違いには意味がなく、音が同じであれば漢字にはこだわらなかったようです。
興味を持たれた方は、あと一回だけですが参加してください。
文化財課へお申し込みください。

令和5年度夏期講座 切り絵講座・絵手紙講座

切り絵講座

講師 森脇新一郎先生 7月22日(土)、29日(土)

初日16名、二回目のみの参加合わせて17名の参加があった。切り絵は花や人物など、たくさんの資料の中から気に入った絵柄を選び、それをコピーして黒画用紙に貼り付けて専用のカッターナイフで切り抜いていくものである。微妙な力加減と根気のいる作業だが、参加された皆さんは経験者もおられ、とても熱心に取り組んでおられた。

 

絵手紙講座

講師 愛水香薫先生 8月4日(金)

3名の参加があった。絵手紙は画仙紙の葉書に墨で輪郭を描き、顔彩という日本画の絵の具で彩色をして、余白に文を添えるものである。夏らしい素材がたくさん用意され、また自分で用意した花や野菜などを思い思いに描いておられた。
絵手紙のポイントは、子供のように無心になって楽しく笑顔で、画面からはみ出すくらい大きく描くのがよいそうである。

文化講座報告

古文書講座
 講師 安田真紀子先生
第1回令和5年6月24日

古文書にチャレンジ『古文書で読み解く飛鳥』

「くずし字の読み方を基礎から学びます」をモットーに、第1回講座が実施されました。参加者は21名で初回から熱心に取り組まれていました。文化講座として8年目を迎えています。講師は安田真紀子先生(奈良からくりおもちゃ館館長・奈良大学講師)です。先生からは”読みとるのはなかなか難しいので、わからない所があってもあきらめないで、その箇所を空けてわかる文字だけで読み進めばよい”とアドバイスをいただきました。
今年度は『西国三十三所名所図会』を教材としています。特に「飛鳥」のことが記されている箇所から学習を進めています。
『西国三十三所名所図会』は、1853年出版された西国にある観音巡礼を巡る旅のガイド書で、行く道中の名所の伝承、遺跡も収録して単なる名所図会で終わっていません。
今回の飛鳥にかかわる部分は、具体的には談山神社から明日香へ下りてくる気都和気神社から始まりました。ここから明日香を一通り巡り、石舞台や「くすりや」などおなじみの場所が出てきます。次回は石舞台古墳の箇所からです。
私たちが日常に接している名所、史跡を江戸時代の人の目で飛鳥の姿がどう映っているかを読み解きます。
興味のある方は、どしどし参加してください。2回目は8月26日(土)、3回目は11月25日(土)です。いずれも13時30分から、場所は中央公民館です。文化財課へお申し込みください。

夏期講座報告

篆刻講座を受講して
 講師 喜多芳邑先生
令和5年7月1日(土)・7月4日(火)

毎年夏期講座のトップを切って実施される篆刻講座(石に文字を彫ろう)講師の喜多芳邑先生の軽妙な語り口の指導の下、
準備していただいた各自好みの文字を彫りはじめると、ググッ ググッと小気味よい音が周りから聞こえてきます。
『自分だけの印を作る』出来上がりを思いながらの作業は集中力のみですが、これが楽しみでもあります。
開始から二時間ほどして、仕上がりを見ていただき手直しをしてもらって出来上がり。緊張が喜びに変わります。
受講のきっかけは、文化協会の拓本講座に参加したこと。作品に押す落款印を作りたいとこの講座に飛びつきました。
奥深い行為ですので、なかなか上達しませんが夏の楽しみとして続けています。喜多先生、境山先生に感謝です。(受講生より)

   

あすか物語
 講師 石田誠克先生  令和5年7月8日

31名の参加者でした。石田先生は古郷明日香村を愛し、退職後は村に貢献したいとボランティアガイド、老人会会長、ラジオ
FM大和で村のPRなど幅広く活躍されています。なかでもガイドの様子を楽しく愉快に飽きさせない話術は最高でした。
聖徳太子の謎、10人の忍者が太子の周りでサポート。高松塚古墳の被葬者の21人の呪いなどは興味津々でした。その活動は、ご自身の豊かな余生であり、後期高齢者のお手本です。今後の活躍を期待します。

 

懐かしの歌を歌おう
 講師 井上澄子先生 令和5年7月18日

厳しい暑さにもかかわらず20名の申し込みがあり、非会員の方が11名参加されました。勝川京子先生の進行のもと、自分の歌いたい曲名を次々にリクエスト、井上先生のピアノ演奏に合わせて皆で歌いました。曲は「ほたる」に始まり、「銀色の道」「旅愁」「今日の日はさようなら」など20数曲を歌いました。楽しそうにのびのびと歌われ、終了後「楽しかった。来年もぜひ参加したい」と大変好評でした。