今年度最終のフィールドワーク

藪の中を踏み分けながら…満足感にあふれるフィールドワークでした

令和4年度第3回フィールドワークは、令和5年2月11日に真弓崗周辺の古墳‌を巡りました。
「古墳を探し求めたが場所がわからなかった」との声を聞き何としてでも行きたいという強い希望に応える形で、西光先生のご好意で実現しました。
先生はこの古墳の発掘を担当されましたがその調査から17年が経緯しているため現地が激変しています。

その為、西光、辰巳両先生は安全を期して、ルート確保の下見までしていただきました。
参加者も軍手、丈夫な靴という”重装備”でした。

見学コースは、カズマヤマ古墳⇒マルコ山古墳⇒真弓ミヅツ古墳⇒真弓テラノマエ古墳の順に歩きました。中央公民館からバスで大字地ノ窪の西はずれの星野リゾート建設予定地を横に見ながら先ずはカヅマヤマ古墳を見学しました。
最初にこの古墳の築造に伴うそそり立つ背面カットを屋根上よりのぞき込んで実感したあと、古墳南側の地点から藪に入り込みました。
現状は手入れがされていないため竹が繁茂し、地元の人ですら行けそうにないと話されるほど大変なコースでした。
ここに35人が訪れるのですから、静かな山里をお騒がせしてしまいました。

明日香村で初めての磚積石室を発掘

先ずはカヅマヤマ古墳を見学しました。
現状は竹藪の中にわずかに盛り土が残っているだけで教えてもらわなければわかりません。
発掘調査によると墳丘は東西に延びる丘陵の南側斜面に東西100m以上、南北60m、高さ8~10mの範囲にわたって削り出した後、平坦に造成して版築によって盛り土を行います。
背面カットの規模は現欽明陵に匹敵する規模です。
墳丘は東西約24m、南北約18m以上、高さ4.2m以上の二段築盛の方墳と推定されています。

埋葬施設は吉野川の結晶片岩で築かれた南に開口する磚積みの横穴式石室です。
盗掘や開墾のため石室は奥壁と右側壁面の一部が残されているだけで、復元による推定規模は、全長6.8m、玄室は長さ3.2m、幅1.8mを測ります。

玄室床面には30✕20㎝大の切り石が敷き詰められていて、その上には棺を乗せる棺台が設けられていました。
そして床面以外は全ての壁面に漆喰が塗布されています。
また石材の接合面にも漆喰が使用されています。
残っていた棺台は長さ2.3m、幅1.8m、高さ35㎝の結晶片岩を積み重ねて漆喰を塗りこめています。
また棺台周辺の床石は水平ではなく各壁面に向って勾配がつけられていて、排水機能を備えていたと思われます。

また漆片が出土していることから漆喰のお棺が置かれていたようです。
この古墳は明日香村で初めての発見の磚積石室です。
築造時期は七世紀後半と考えられています。

推定マグニチュード7.9~8以上の揺れでカヅマヤマ古墳が壊れた?
激震の痕跡見つかる

地震ですべり落ちた石室壁(現地説明会資料より)

地震ですべり落ちた石室壁(現地説明会資料より)

この古墳の発掘で特に注目されたのは、大きな地震による地滑りの後が見つかったことです。
墳丘中央部から南側にかけて約2mにわたって大きく崩れ落ちています。
地震特定の根拠は、12世紀代に盗掘された痕跡が見つかり、その後に地震による崩れがあったことがわかりました。

盗掘された時期の後に石室を壊すほどの大きな地震を調べると、1361年8月3日発生の”正平の南海地震”があることがわかりこの地震ではないかと考えられています。
この地震は揺れが10数分間続いたと言われ、村内の発掘調査でも酒船石遺跡の石垣の倒壊、高松塚古墳の石室や墳丘の亀裂、キトラ古墳なども被害にあった痕跡が検出されています。

 

マルコ山古墳の被葬者は、天武天皇の子 川島皇子か?

マルコ山古墳

マルコ山古墳    

続いて、マルコ山古墳に移動しました。
マルコ山古墳が注目されたのは高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されてからです。
この古墳が立地や形態が高松塚古墳と似ていることから、がぜん第二の壁画古墳ではないかと騒がれました。
この古墳の調査で盗掘孔を使い、日本考古学上初のファイバースコープによる調査が導入されて、調べた結果壁画が存在しなかったため、キトラ古墳の調査へと移っていきます。
四次にわたる調査の結果、墳形は多角形(六角)とされ、23.6mの規模があり、埋葬施設は高松塚古墳と同じ凝灰岩の切石の横口式石槨でした。

石室の内寸は全長2.71m、幅1.28m、高さ1.35mあり、石槨内は厚さ2~7㎜の漆喰が塗られ漆喰木棺の破片が沢山ありました。
被葬者を巡っては、太刀の飾り金具や出土した人骨が年齢30~40代の男子と推測され、石棺の形式などの事実から、691年に亡くなった川島皇子ではないかとする説が有力です。

 

人骨からの香しいにおい…においの正体は

また特に注目すべきことは、出土した人骨から優雅な匂いが漂っていたということです。
スパイスの専門家の分析によると、これは竜脳という香気を発する東南アジアで採れる美しい白色結晶性の顆粒といいます。
遺骸に付けられていたのではないかといわれています。
人骨から優雅な匂いとはぞくぞくする発見です。
続いて、眞弓ミヅツ古墳を近くから見学しました。
現状はみかん畑の斜面にあって、教えていただけなければ古墳とはわからない状態です。
周辺には漆喰の付着した結晶片が散乱しているとのことです。
発掘調査はまだされていません。

 

吉野川から約3万個の石(結晶片石)が運ばれて作られた真弓テラノマエ古墳

真弓テラノマエ古墳の現状(赤い服の人の前あたり)

真弓テラノマエ古墳の現状(赤い服の人の前あたり)

最後に、真弓テラノマエ古墳を見学しました。
この古墳はカヅマヤマ古墳から連なる低い丘陵の東側にあって、現状は竹のブッシュになっています。
明治時代に古墳の石材が取られ、その後畑地として開墾されていて、墳丘としての明確な高まりはありませんでした。
しかし西光さんらが歩いて調査された際に、ゆるやかな斜面に漆喰の付着した結晶片石や平瓦が散乱していたので古墳があることがわかりました。

この古墳がある丘陵は、東西70m、高さ12mにわたり背面をカットしている地形です。
現状を見る限り古墳とは全くわかりません。
周辺地域と比べわずかな地形の起伏から石室の方向や大きさを推定して発掘調査が実施されました。
発掘の結果、埋葬施設は奥壁と右側壁を残すのみでしたが、結晶片岩による磚積の横穴式石室で、玄室幅は約1.7mと推定されています。

カヅマヤマ古墳との共通点が多く見られますが、玄室床面全体に瓦が漆喰で積み重ねた棺台(高さ12㎝)が置かれていました。
また、石室だけでなく墳丘の斜面にも大量の結晶片岩が使用されていて約3万枚が使われていたと推定されます。

 

テラノマエ古墳からマルコ山古墳へ続く4基は計画的に配置された公葬地

これらの古墳が立地している四つの古墳の位置と周辺地形や埋葬施設の状況から興味深いことを教わりました。

先ずこの四つの古墳は、建造にあたって丘陵の南斜面に造られ背面を100mから70m深さ8~12mにも及び削りだして造られている終末期古墳の特徴が伺われます。
しかも東から真弓テラノマエ古墳(7世紀前半)⇒真弓ミヅツ古墳(7世紀中)⇒カヅマヤマ古墳(7世紀後半)⇒マルコ山古墳(7世紀末)へと築造が順に行われていると推測されています。
またその特徴として・真弓テラノマエ古墳には、飛鳥寺創建時瓦が棺台として使用されていることや磚積石室という特異な石室である

  • これらの古墳が古代の幹道であった紀路の近くである
  • キトラ古墳をはじめとして檜隈地域を望む位置にある

こうしたことから被葬者の性格がうかがえるということです。
そして出土瓦からみられる使用瓦数はかなりの数が想定され、古墳築造には約三万人という人数がかかわったのではないかと思われます。
牽牛子塚古墳でも築造に約三万人が動員されたと推定されていることから、テラノマエ古墳の被葬者は相当高い地位の有力者であったことが想定されています。
また「真弓テラノマエ古墳や眞弓ミヅツ古墳、カヅマヤマ古墳がなければ、マルコ山古墳は築造されていなかった」といわれるほど密接な関係が重要な点です。

 

眞弓地域に眠るのは王族クラスの系統に繋がる人物か?

真弓テラノマエ古墳の背面傾斜

真弓テラノマエ古墳の背面傾斜

「渡来系のしかも王族クラスの系統に繋がる人物でないか」また「王権内の政治機構内における重要人物ではないか」との大胆な興味あるお話を伺いました。
飛鳥の造墓地として墓造りが許されている土地(公葬地)は、公にしかも計画的に古墳が作られる土地でした。
公葬地としては、現欽明陵から東へ天武・持統陵へと続く今城谷がありますが、それと並ぶのがこの眞弓地域です。
しかもこの四つの古墳は血縁関係で結ばれた一族のものである推定されています。
これらの古墳を見学して、帰りのバスに乗車したのが4時30分でかなり予定をオーバーしました。
しかし参加者の皆さんは個人的にこれらの古墳を見学したかった方々がほとんどで、しかも大変重要な立地のもとに造られていることを実感できて大変満足感にあふれる表情をされていました。