第二回 フィールドワーク

飛鳥京を囲んでいた掘立塀跡沿いを歩く

今回のテーマは「飛鳥時代の宮殿や建物の痕跡が現在の水田や畦畔にどれだけ残っていて辿れるか」です。
その痕跡を求めて7月17日(日)に33名の方が集合しました。
当日は酷暑の中、西光慎二先生、辰巳俊輔先生の案内のもとエビノコ郭から飛鳥京(主に後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)、
飛鳥京の北限の地、外郭東辺の地を巡りました。

飛鳥京を一望できるビューポイントに立つ ▻▻▻

先ずは二組に分かれて、全員で役場西棟の屋上に登り飛鳥京を望みました。
この屋上は京の全体を望むことの出来る唯一の場所です。
閉庁日でしたが文化財課の計らいで実現しました。この屋上のある地点が飛鳥京の中心となる位置です。飛鳥京の西半分は飛鳥川の氾濫で削られていますが、東側の発掘調査の成果から当時の姿が復元できます。
飛鳥京の内郭と外郭の存在そして内郭に南と北の区画があったことがわかっています。
屋上からタブレットを向けるとバーチャルで飛鳥京にあった建物群や当時あった川原寺などを見ることができました。
タイムスリップした感覚で、みなさんは大変喜ばれていました。

 

飛鳥京の内郭を囲む掘立塀の角を歩き、
前殿や正殿跡に立つ ▻▻▻

続いて郵便局裏の道に移動しました。
この地点では内郭を囲む掘立柱列が発掘され、しかも柱が旧地表で切られた状態で残っていました。
多くの場合、柱は抜き取られますがここでは直径35㎝の柱が約1m残っていました。屋根のついた立派な塀であったことがわかりました。
またこの郵便局裏の川はかつて内郭の南にあたり大溝のあった場所を流れています。
この地点から道なりに進み大きな一筆となっている水田で説明を受けました。
この場所から内郭の南門跡が発見されています。この南門につながる廊下も判明し、この廊下跡に沿って水田の畦が続いています。さらに北へ進み現在一段低くなったところにあったのが前殿です。
建物の周辺には一面にこぶし大の石が敷き詰められていました。この前殿と更に北側の正殿との間には規格のために三時期にわたる柵が設けられていることが発掘調査で判明しました。
さらに北に進み南の正殿が発見された場所で説明を受けました。
この南の正殿周辺の発掘では人頭大の石が敷き詰められていてその様子は”飛鳥一の美しさ”との賛美の声が上がるほどです。
この二つの建物の敷石の違いは南にある前殿は政務を行う公的な性格の建物で、北にある正殿は天皇がおられた空間であったのではないかと推測されています。
続いて村道北にある北の正殿に立ちました。参加者からも同じ建物がどうして二つあったのでしょうかとの質問が出されていました。発掘調査によると南北の建物は同規模同構造で柱列も南北で筋が揃っている点から同時期に併存していたのではないかと推測されています。
立派なしかも同じ建物が同時期に南北に並んで建っていたとは驚きの事実です。

さらに道なりに北へ進み、吉野川分水の所で説明を受けました。分水の改修に伴い飛鳥京で最大規模の建物が発見されています。外郭大型建物と呼ばれ東西29.4m南北15mに及ぶ規模です。
丁度大型建物が建っていた範囲を斜めに横切るように分水が流れていて、限られた発掘範囲ではありますが大規模な建物が復元されました。その後、苑池遺跡の休憩所に入って給水とトイレ休憩を取りました。

飛鳥京の北限の地を体感 ▻▻▻

休憩後、さらに北へ進み飛鳥京の北限の地点に立って飛鳥京の範囲を確認しました。
この地点の水田や畦畔は南北幅約10mほど水田の高さが一段下がった状態が見受けられました。また現在でもこの北限に沿うかのように水路が急に西向きに流れを変えています。
またこの地点の発掘調査でも北限となる幅1mの溝跡も確認されています。
飛鳥京の排水を飛鳥川へ流すための基幹水路でもあったと推測されています。

飛鳥京の外郭東辺の掘立塀を歩き
飛鳥宮の年代決定の木簡発見の地に立つ ▻▻▻

次に東に向かって天理教岡大教会の前に移動しました。この教会の工事に伴う発掘調査で飛鳥京の外郭東辺に伴う溝が検出されています。
この溝があった地点から南に伸びる水路とあぜ道を進みました。

上の写真にあるように、この道こそ後飛鳥岡本宮の南北に伸びる外郭東辺塀と溝に沿っています。まさしく飛鳥京の区画が見事に残っています。
この溝に近い民家と駐車場の発掘調査で飛鳥宮の年代決定や天武天皇にかかわる貴重な木簡が発見されています。
特に民家の敷地から発見された大津皇子や大来や大友「辛巳年」(681年)などと記された削りくず木簡は日本書紀との関連で注目されています。というのは書紀の編纂を命じたのは天武天皇でその宮があった浄御原宮の時期の木簡であるからです。
発見当時は書紀作成の基礎資料かと騒がれました。
駐車場の発掘では飛鳥京の確定にかかわる重要な発見の木簡が出土されました。
「大花下」という664年〜678年の間でしか使われなかった冠位を示す木簡であるからです。この木簡は大変有名で知っておられる方も多いと思いますが多くの人は飛鳥京の井戸跡からの出土と思っておられました。歴史上の大発見とも言える木簡群が飛鳥宮外の溝に一括して大量放棄されていたとはまったく想像できませんでした。
そして外郭東辺塀跡に沿ってさらに南へ進み、宮の東南角の地点でまとめを行いました。

▻▻▻ まとめ

宮が遷り宮殿がその役目を終えた時に、建物や掘立塀などの柱や部材は次の宮へ移るために解体されます。
そして宮は廃墟となりいつの時代か水田や畑に変わってしまいます。
その際かつての建物や敷地の形状に沿う形で更に細かく畦畔で仕切り一筆の水田として残ったと思われます。
飛鳥宮の内郭とその周辺の水田の一筆は長方形状となっていてなかでも東外郭の周辺の水田は東西に細長くきれいに並んでいます。飛鳥京が廃墟になってどれくらいの期間で水田になったかは全く不明です。
しかし飛鳥の地形は鎌倉時代からあまり変わっていないとも言われ私達の想像力を更にかきたててくれるフィールドワークとなりました。
毎回参加されている参加者の一人は
「いつもの三倍の値打ちあるフィールドワークでした」と感想を述べられていて今回のフィールドワークの充実感が窺えました。

 

夏期講座報告

やきもの鑑賞ー

今年最後の夏期講座が8月21日(日)に開催されました。

参加者がそれぞれ所有するやきものを持ち寄り、その一品にかかわるお話を、講師の脇田宗孝先生から伺う講座です。

「結婚式のお祝いでもらった壷」

「昔の稼業で(油屋)使っていた壷」

「備前焼の窯元を見学したときに一番気に入った壷」

「以前から収集している古いやきものの破片」

などが持ち寄られ中央のテーブルに置いて、一人一人が自分のいわれを述べて先生がそれについて話されるという形で進められました。

先生は、日本は火山国であるために各地で粘土の質が違い文化の違いとも相まってやきものも違っている。各地の陶工は優れた作品を作ることで喜んでもらえるように
一生懸命に取り組んで各地でのレベルが上がった。日本のやきものは世界でも最高峰にありレベルが高いと話されました。

「備前焼の壷」は、粘土の質による時代の違い、大きな登り窯で焼成する時にどの場所に置くかによって焼成温度の違いが生じ
どの作品をとっても同じものがない。緑の釉薬がある壷については“流しかけ”釉薬の話、焼成後の粘土の色の違いによる産地の特定、さらにやきものを入れる桐箱の話などどれも興味深い話が続きました。

また「伊万里焼の破片」では実際に焼かれたのは有田で、伊万里港から運ばれて来たために“伊万里焼”と呼ばれるようになったと”目から鱗”の話でした。

同じ例として”ルソンの壷”も、作られたのは中国の福建省で東インド会社の船でルソン島に運ばれ日本の堺に持ち込まれたことからそう呼ばれるようになったとのことです。

先生は若いころに日本や世界の窯元を訪ね歩き、薪割りや粘土運びを手伝いながら
“一宿一飯の恩を返す旅”をされていたそうで、そうした経験による豊富な知識を
持たれているからこそ、どんなやきものを持ち込まれても対応され多くのことを教えていただけるのだと思いました。

最後に明日香『古代のやきもの』なぞなぞクイズとして21問の〇✕クイズで締めくくられました。

そのうちのいくつかを設問として出しますので、皆さんもチャレンジしてください。

①縄文土器は世界の土器で最も古いものの一つである。

②弥生土器は畿内より発生したもので稲作文化と関連している。

③土師器は古墳時代だけでなく近世まで使われていた。

④須恵器は瀬戸地方で一番早くから作られていた。

⑤釉薬の最初は朝鮮半島から伝えられ川原寺でも使われていた。

正解 ①〇②✕③〇④✕⑤〇