夏期講座報告

篆刻講座を受講して
 講師 喜多芳邑先生
令和5年7月1日(土)・7月4日(火)

毎年夏期講座のトップを切って実施される篆刻講座(石に文字を彫ろう)講師の喜多芳邑先生の軽妙な語り口の指導の下、
準備していただいた各自好みの文字を彫りはじめると、ググッ ググッと小気味よい音が周りから聞こえてきます。
『自分だけの印を作る』出来上がりを思いながらの作業は集中力のみですが、これが楽しみでもあります。
開始から二時間ほどして、仕上がりを見ていただき手直しをしてもらって出来上がり。緊張が喜びに変わります。
受講のきっかけは、文化協会の拓本講座に参加したこと。作品に押す落款印を作りたいとこの講座に飛びつきました。
奥深い行為ですので、なかなか上達しませんが夏の楽しみとして続けています。喜多先生、境山先生に感謝です。(受講生より)

   

あすか物語
 講師 石田誠克先生  令和5年7月8日

31名の参加者でした。石田先生は古郷明日香村を愛し、退職後は村に貢献したいとボランティアガイド、老人会会長、ラジオ
FM大和で村のPRなど幅広く活躍されています。なかでもガイドの様子を楽しく愉快に飽きさせない話術は最高でした。
聖徳太子の謎、10人の忍者が太子の周りでサポート。高松塚古墳の被葬者の21人の呪いなどは興味津々でした。その活動は、ご自身の豊かな余生であり、後期高齢者のお手本です。今後の活躍を期待します。

 

懐かしの歌を歌おう
 講師 井上澄子先生 令和5年7月18日

厳しい暑さにもかかわらず20名の申し込みがあり、非会員の方が11名参加されました。勝川京子先生の進行のもと、自分の歌いたい曲名を次々にリクエスト、井上先生のピアノ演奏に合わせて皆で歌いました。曲は「ほたる」に始まり、「銀色の道」「旅愁」「今日の日はさようなら」など20数曲を歌いました。楽しそうにのびのびと歌われ、終了後「楽しかった。来年もぜひ参加したい」と大変好評でした。

 

今年度最終のフィールドワーク

藪の中を踏み分けながら…満足感にあふれるフィールドワークでした

令和4年度第3回フィールドワークは、令和5年2月11日に真弓崗周辺の古墳‌を巡りました。
「古墳を探し求めたが場所がわからなかった」との声を聞き何としてでも行きたいという強い希望に応える形で、西光先生のご好意で実現しました。
先生はこの古墳の発掘を担当されましたがその調査から17年が経緯しているため現地が激変しています。

その為、西光、辰巳両先生は安全を期して、ルート確保の下見までしていただきました。
参加者も軍手、丈夫な靴という”重装備”でした。

見学コースは、カズマヤマ古墳⇒マルコ山古墳⇒真弓ミヅツ古墳⇒真弓テラノマエ古墳の順に歩きました。中央公民館からバスで大字地ノ窪の西はずれの星野リゾート建設予定地を横に見ながら先ずはカヅマヤマ古墳を見学しました。
最初にこの古墳の築造に伴うそそり立つ背面カットを屋根上よりのぞき込んで実感したあと、古墳南側の地点から藪に入り込みました。
現状は手入れがされていないため竹が繁茂し、地元の人ですら行けそうにないと話されるほど大変なコースでした。
ここに35人が訪れるのですから、静かな山里をお騒がせしてしまいました。

明日香村で初めての磚積石室を発掘

先ずはカヅマヤマ古墳を見学しました。
現状は竹藪の中にわずかに盛り土が残っているだけで教えてもらわなければわかりません。
発掘調査によると墳丘は東西に延びる丘陵の南側斜面に東西100m以上、南北60m、高さ8~10mの範囲にわたって削り出した後、平坦に造成して版築によって盛り土を行います。
背面カットの規模は現欽明陵に匹敵する規模です。
墳丘は東西約24m、南北約18m以上、高さ4.2m以上の二段築盛の方墳と推定されています。

埋葬施設は吉野川の結晶片岩で築かれた南に開口する磚積みの横穴式石室です。
盗掘や開墾のため石室は奥壁と右側壁面の一部が残されているだけで、復元による推定規模は、全長6.8m、玄室は長さ3.2m、幅1.8mを測ります。

玄室床面には30✕20㎝大の切り石が敷き詰められていて、その上には棺を乗せる棺台が設けられていました。
そして床面以外は全ての壁面に漆喰が塗布されています。
また石材の接合面にも漆喰が使用されています。
残っていた棺台は長さ2.3m、幅1.8m、高さ35㎝の結晶片岩を積み重ねて漆喰を塗りこめています。
また棺台周辺の床石は水平ではなく各壁面に向って勾配がつけられていて、排水機能を備えていたと思われます。

また漆片が出土していることから漆喰のお棺が置かれていたようです。
この古墳は明日香村で初めての発見の磚積石室です。
築造時期は七世紀後半と考えられています。

推定マグニチュード7.9~8以上の揺れでカヅマヤマ古墳が壊れた?
激震の痕跡見つかる

地震ですべり落ちた石室壁(現地説明会資料より)

地震ですべり落ちた石室壁(現地説明会資料より)

この古墳の発掘で特に注目されたのは、大きな地震による地滑りの後が見つかったことです。
墳丘中央部から南側にかけて約2mにわたって大きく崩れ落ちています。
地震特定の根拠は、12世紀代に盗掘された痕跡が見つかり、その後に地震による崩れがあったことがわかりました。

盗掘された時期の後に石室を壊すほどの大きな地震を調べると、1361年8月3日発生の”正平の南海地震”があることがわかりこの地震ではないかと考えられています。
この地震は揺れが10数分間続いたと言われ、村内の発掘調査でも酒船石遺跡の石垣の倒壊、高松塚古墳の石室や墳丘の亀裂、キトラ古墳なども被害にあった痕跡が検出されています。

 

マルコ山古墳の被葬者は、天武天皇の子 川島皇子か?

マルコ山古墳

マルコ山古墳    

続いて、マルコ山古墳に移動しました。
マルコ山古墳が注目されたのは高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されてからです。
この古墳が立地や形態が高松塚古墳と似ていることから、がぜん第二の壁画古墳ではないかと騒がれました。
この古墳の調査で盗掘孔を使い、日本考古学上初のファイバースコープによる調査が導入されて、調べた結果壁画が存在しなかったため、キトラ古墳の調査へと移っていきます。
四次にわたる調査の結果、墳形は多角形(六角)とされ、23.6mの規模があり、埋葬施設は高松塚古墳と同じ凝灰岩の切石の横口式石槨でした。

石室の内寸は全長2.71m、幅1.28m、高さ1.35mあり、石槨内は厚さ2~7㎜の漆喰が塗られ漆喰木棺の破片が沢山ありました。
被葬者を巡っては、太刀の飾り金具や出土した人骨が年齢30~40代の男子と推測され、石棺の形式などの事実から、691年に亡くなった川島皇子ではないかとする説が有力です。

 

人骨からの香しいにおい…においの正体は

また特に注目すべきことは、出土した人骨から優雅な匂いが漂っていたということです。
スパイスの専門家の分析によると、これは竜脳という香気を発する東南アジアで採れる美しい白色結晶性の顆粒といいます。
遺骸に付けられていたのではないかといわれています。
人骨から優雅な匂いとはぞくぞくする発見です。
続いて、眞弓ミヅツ古墳を近くから見学しました。
現状はみかん畑の斜面にあって、教えていただけなければ古墳とはわからない状態です。
周辺には漆喰の付着した結晶片が散乱しているとのことです。
発掘調査はまだされていません。

 

吉野川から約3万個の石(結晶片石)が運ばれて作られた真弓テラノマエ古墳

真弓テラノマエ古墳の現状(赤い服の人の前あたり)

真弓テラノマエ古墳の現状(赤い服の人の前あたり)

最後に、真弓テラノマエ古墳を見学しました。
この古墳はカヅマヤマ古墳から連なる低い丘陵の東側にあって、現状は竹のブッシュになっています。
明治時代に古墳の石材が取られ、その後畑地として開墾されていて、墳丘としての明確な高まりはありませんでした。
しかし西光さんらが歩いて調査された際に、ゆるやかな斜面に漆喰の付着した結晶片石や平瓦が散乱していたので古墳があることがわかりました。

この古墳がある丘陵は、東西70m、高さ12mにわたり背面をカットしている地形です。
現状を見る限り古墳とは全くわかりません。
周辺地域と比べわずかな地形の起伏から石室の方向や大きさを推定して発掘調査が実施されました。
発掘の結果、埋葬施設は奥壁と右側壁を残すのみでしたが、結晶片岩による磚積の横穴式石室で、玄室幅は約1.7mと推定されています。

カヅマヤマ古墳との共通点が多く見られますが、玄室床面全体に瓦が漆喰で積み重ねた棺台(高さ12㎝)が置かれていました。
また、石室だけでなく墳丘の斜面にも大量の結晶片岩が使用されていて約3万枚が使われていたと推定されます。

 

テラノマエ古墳からマルコ山古墳へ続く4基は計画的に配置された公葬地

これらの古墳が立地している四つの古墳の位置と周辺地形や埋葬施設の状況から興味深いことを教わりました。

先ずこの四つの古墳は、建造にあたって丘陵の南斜面に造られ背面を100mから70m深さ8~12mにも及び削りだして造られている終末期古墳の特徴が伺われます。
しかも東から真弓テラノマエ古墳(7世紀前半)⇒真弓ミヅツ古墳(7世紀中)⇒カヅマヤマ古墳(7世紀後半)⇒マルコ山古墳(7世紀末)へと築造が順に行われていると推測されています。
またその特徴として・真弓テラノマエ古墳には、飛鳥寺創建時瓦が棺台として使用されていることや磚積石室という特異な石室である

  • これらの古墳が古代の幹道であった紀路の近くである
  • キトラ古墳をはじめとして檜隈地域を望む位置にある

こうしたことから被葬者の性格がうかがえるということです。
そして出土瓦からみられる使用瓦数はかなりの数が想定され、古墳築造には約三万人という人数がかかわったのではないかと思われます。
牽牛子塚古墳でも築造に約三万人が動員されたと推定されていることから、テラノマエ古墳の被葬者は相当高い地位の有力者であったことが想定されています。
また「真弓テラノマエ古墳や眞弓ミヅツ古墳、カヅマヤマ古墳がなければ、マルコ山古墳は築造されていなかった」といわれるほど密接な関係が重要な点です。

 

眞弓地域に眠るのは王族クラスの系統に繋がる人物か?

真弓テラノマエ古墳の背面傾斜

真弓テラノマエ古墳の背面傾斜

「渡来系のしかも王族クラスの系統に繋がる人物でないか」また「王権内の政治機構内における重要人物ではないか」との大胆な興味あるお話を伺いました。
飛鳥の造墓地として墓造りが許されている土地(公葬地)は、公にしかも計画的に古墳が作られる土地でした。
公葬地としては、現欽明陵から東へ天武・持統陵へと続く今城谷がありますが、それと並ぶのがこの眞弓地域です。
しかもこの四つの古墳は血縁関係で結ばれた一族のものである推定されています。
これらの古墳を見学して、帰りのバスに乗車したのが4時30分でかなり予定をオーバーしました。
しかし参加者の皆さんは個人的にこれらの古墳を見学したかった方々がほとんどで、しかも大変重要な立地のもとに造られていることを実感できて大変満足感にあふれる表情をされていました。

 

 

第二回 フィールドワーク

飛鳥京を囲んでいた掘立塀跡沿いを歩く

今回のテーマは「飛鳥時代の宮殿や建物の痕跡が現在の水田や畦畔にどれだけ残っていて辿れるか」です。
その痕跡を求めて7月17日(日)に33名の方が集合しました。
当日は酷暑の中、西光慎二先生、辰巳俊輔先生の案内のもとエビノコ郭から飛鳥京(主に後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)、
飛鳥京の北限の地、外郭東辺の地を巡りました。

飛鳥京を一望できるビューポイントに立つ ▻▻▻

先ずは二組に分かれて、全員で役場西棟の屋上に登り飛鳥京を望みました。
この屋上は京の全体を望むことの出来る唯一の場所です。
閉庁日でしたが文化財課の計らいで実現しました。この屋上のある地点が飛鳥京の中心となる位置です。飛鳥京の西半分は飛鳥川の氾濫で削られていますが、東側の発掘調査の成果から当時の姿が復元できます。
飛鳥京の内郭と外郭の存在そして内郭に南と北の区画があったことがわかっています。
屋上からタブレットを向けるとバーチャルで飛鳥京にあった建物群や当時あった川原寺などを見ることができました。
タイムスリップした感覚で、みなさんは大変喜ばれていました。

 

飛鳥京の内郭を囲む掘立塀の角を歩き、
前殿や正殿跡に立つ ▻▻▻

続いて郵便局裏の道に移動しました。
この地点では内郭を囲む掘立柱列が発掘され、しかも柱が旧地表で切られた状態で残っていました。
多くの場合、柱は抜き取られますがここでは直径35㎝の柱が約1m残っていました。屋根のついた立派な塀であったことがわかりました。
またこの郵便局裏の川はかつて内郭の南にあたり大溝のあった場所を流れています。
この地点から道なりに進み大きな一筆となっている水田で説明を受けました。
この場所から内郭の南門跡が発見されています。この南門につながる廊下も判明し、この廊下跡に沿って水田の畦が続いています。さらに北へ進み現在一段低くなったところにあったのが前殿です。
建物の周辺には一面にこぶし大の石が敷き詰められていました。この前殿と更に北側の正殿との間には規格のために三時期にわたる柵が設けられていることが発掘調査で判明しました。
さらに北に進み南の正殿が発見された場所で説明を受けました。
この南の正殿周辺の発掘では人頭大の石が敷き詰められていてその様子は”飛鳥一の美しさ”との賛美の声が上がるほどです。
この二つの建物の敷石の違いは南にある前殿は政務を行う公的な性格の建物で、北にある正殿は天皇がおられた空間であったのではないかと推測されています。
続いて村道北にある北の正殿に立ちました。参加者からも同じ建物がどうして二つあったのでしょうかとの質問が出されていました。発掘調査によると南北の建物は同規模同構造で柱列も南北で筋が揃っている点から同時期に併存していたのではないかと推測されています。
立派なしかも同じ建物が同時期に南北に並んで建っていたとは驚きの事実です。

さらに道なりに北へ進み、吉野川分水の所で説明を受けました。分水の改修に伴い飛鳥京で最大規模の建物が発見されています。外郭大型建物と呼ばれ東西29.4m南北15mに及ぶ規模です。
丁度大型建物が建っていた範囲を斜めに横切るように分水が流れていて、限られた発掘範囲ではありますが大規模な建物が復元されました。その後、苑池遺跡の休憩所に入って給水とトイレ休憩を取りました。

飛鳥京の北限の地を体感 ▻▻▻

休憩後、さらに北へ進み飛鳥京の北限の地点に立って飛鳥京の範囲を確認しました。
この地点の水田や畦畔は南北幅約10mほど水田の高さが一段下がった状態が見受けられました。また現在でもこの北限に沿うかのように水路が急に西向きに流れを変えています。
またこの地点の発掘調査でも北限となる幅1mの溝跡も確認されています。
飛鳥京の排水を飛鳥川へ流すための基幹水路でもあったと推測されています。

飛鳥京の外郭東辺の掘立塀を歩き
飛鳥宮の年代決定の木簡発見の地に立つ ▻▻▻

次に東に向かって天理教岡大教会の前に移動しました。この教会の工事に伴う発掘調査で飛鳥京の外郭東辺に伴う溝が検出されています。
この溝があった地点から南に伸びる水路とあぜ道を進みました。

上の写真にあるように、この道こそ後飛鳥岡本宮の南北に伸びる外郭東辺塀と溝に沿っています。まさしく飛鳥京の区画が見事に残っています。
この溝に近い民家と駐車場の発掘調査で飛鳥宮の年代決定や天武天皇にかかわる貴重な木簡が発見されています。
特に民家の敷地から発見された大津皇子や大来や大友「辛巳年」(681年)などと記された削りくず木簡は日本書紀との関連で注目されています。というのは書紀の編纂を命じたのは天武天皇でその宮があった浄御原宮の時期の木簡であるからです。
発見当時は書紀作成の基礎資料かと騒がれました。
駐車場の発掘では飛鳥京の確定にかかわる重要な発見の木簡が出土されました。
「大花下」という664年〜678年の間でしか使われなかった冠位を示す木簡であるからです。この木簡は大変有名で知っておられる方も多いと思いますが多くの人は飛鳥京の井戸跡からの出土と思っておられました。歴史上の大発見とも言える木簡群が飛鳥宮外の溝に一括して大量放棄されていたとはまったく想像できませんでした。
そして外郭東辺塀跡に沿ってさらに南へ進み、宮の東南角の地点でまとめを行いました。

▻▻▻ まとめ

宮が遷り宮殿がその役目を終えた時に、建物や掘立塀などの柱や部材は次の宮へ移るために解体されます。
そして宮は廃墟となりいつの時代か水田や畑に変わってしまいます。
その際かつての建物や敷地の形状に沿う形で更に細かく畦畔で仕切り一筆の水田として残ったと思われます。
飛鳥宮の内郭とその周辺の水田の一筆は長方形状となっていてなかでも東外郭の周辺の水田は東西に細長くきれいに並んでいます。飛鳥京が廃墟になってどれくらいの期間で水田になったかは全く不明です。
しかし飛鳥の地形は鎌倉時代からあまり変わっていないとも言われ私達の想像力を更にかきたててくれるフィールドワークとなりました。
毎回参加されている参加者の一人は
「いつもの三倍の値打ちあるフィールドワークでした」と感想を述べられていて今回のフィールドワークの充実感が窺えました。

 

夏期講座報告

やきもの鑑賞ー

今年最後の夏期講座が8月21日(日)に開催されました。

参加者がそれぞれ所有するやきものを持ち寄り、その一品にかかわるお話を、講師の脇田宗孝先生から伺う講座です。

「結婚式のお祝いでもらった壷」

「昔の稼業で(油屋)使っていた壷」

「備前焼の窯元を見学したときに一番気に入った壷」

「以前から収集している古いやきものの破片」

などが持ち寄られ中央のテーブルに置いて、一人一人が自分のいわれを述べて先生がそれについて話されるという形で進められました。

先生は、日本は火山国であるために各地で粘土の質が違い文化の違いとも相まってやきものも違っている。各地の陶工は優れた作品を作ることで喜んでもらえるように
一生懸命に取り組んで各地でのレベルが上がった。日本のやきものは世界でも最高峰にありレベルが高いと話されました。

「備前焼の壷」は、粘土の質による時代の違い、大きな登り窯で焼成する時にどの場所に置くかによって焼成温度の違いが生じ
どの作品をとっても同じものがない。緑の釉薬がある壷については“流しかけ”釉薬の話、焼成後の粘土の色の違いによる産地の特定、さらにやきものを入れる桐箱の話などどれも興味深い話が続きました。

また「伊万里焼の破片」では実際に焼かれたのは有田で、伊万里港から運ばれて来たために“伊万里焼”と呼ばれるようになったと”目から鱗”の話でした。

同じ例として”ルソンの壷”も、作られたのは中国の福建省で東インド会社の船でルソン島に運ばれ日本の堺に持ち込まれたことからそう呼ばれるようになったとのことです。

先生は若いころに日本や世界の窯元を訪ね歩き、薪割りや粘土運びを手伝いながら
“一宿一飯の恩を返す旅”をされていたそうで、そうした経験による豊富な知識を
持たれているからこそ、どんなやきものを持ち込まれても対応され多くのことを教えていただけるのだと思いました。

最後に明日香『古代のやきもの』なぞなぞクイズとして21問の〇✕クイズで締めくくられました。

そのうちのいくつかを設問として出しますので、皆さんもチャレンジしてください。

①縄文土器は世界の土器で最も古いものの一つである。

②弥生土器は畿内より発生したもので稲作文化と関連している。

③土師器は古墳時代だけでなく近世まで使われていた。

④須恵器は瀬戸地方で一番早くから作られていた。

⑤釉薬の最初は朝鮮半島から伝えられ川原寺でも使われていた。

正解 ①〇②✕③〇④✕⑤〇

 

 

 

歴史探訪・フィールドワークより

ー畦畔に残る大規模な池の痕跡(嶋の宮、東橘遺跡)と宮殿級の建物跡をめぐるー

今回のテーマは、飛鳥時代の宮殿や建物の痕跡が水田や畦畔にどれだけ残っているのかを探りました。誰もが本当に残っているのか疑問を持つところですが、その痕跡を求めて31名が参加しました。当日は晴天にも恵まれ、明日香村文化財課の西光慎二先生の案内で巡りました。嶋の宮にはかつて蘇我馬子の邸宅がありその庭に大きな池を開き嶋を築いたと言われています。池も「勾の池」「上の池」「下の池」があったことが万葉集にも詠われています。この「勾の池」と推定される場所が発掘され、42m四方の大きな池が確認され、池の堤は10mの幅がある壮大な規模でした。護岸の石組は古墳の石室のような豪壮なもので、池底には径20cmの川原石がびっしりと敷きつめられていました。この池の一部が水田の畦畔としていまだに鮮やかに残っています。そしてその畦畔の方向が周辺の水田とは明らかに異なっています。さらに幅10mの堤の外には塀が3時期にわたって作られていたことも判明し、いかに大切な池であったか伺えます。                  

 この池跡から旧高市小学校敷地へ移動しました。ここでは発掘調査により多くの建物跡が発見されています。建物跡は作られた時期によって方向が明らかに違うことがわかりました。北西に傾いている建物群は先ほどの「勾池」と同じ方向で7世紀初め頃と推定されています。また飛鳥宮の最下層で確認されている岡本宮の方向とも同じで、蘇我馬子の時代そのものです。真北に向いた建物群は、皇極朝と天武朝の頃と推定されています。乙巳の変後、蘇我氏の嶋宅は離宮となり、天智・天武天皇の祖母嶋皇祖母や中大兄皇子も住みました。その後、草壁皇子の嶋の宮になっています。

 次に飛鳥川にかかる玉藻橋を渡り、飛鳥川のさがんの道を橘寺に向かって歩きました。途中、東橘遺跡近くで川向いに嶋の宮を眺めながら西光先生の説明を受けました。この東橘遺跡では、立派な建物跡につながる左右の廊下が検出され、時期を特定する土器等が出なかったため不明ですが、草壁皇子の宮殿ではないかと推定されています。また、この飛鳥川を挟んで両方の遺跡が同じ方向を向いているのはただの偶然ではなく、政治的な意味を持っていると強調されました。

 飛鳥宮と嶋の宮と東橘遺跡との関係について歴史的に関連性をもった大きな視点からの展開に壮大な歴史ロマンを感じるフィールドワークでした。