歴史探訪・フィールドワークより

ー畦畔に残る大規模な池の痕跡(嶋の宮、東橘遺跡)と宮殿級の建物跡をめぐるー

今回のテーマは、飛鳥時代の宮殿や建物の痕跡が水田や畦畔にどれだけ残っているのかを探りました。誰もが本当に残っているのか疑問を持つところですが、その痕跡を求めて31名が参加しました。当日は晴天にも恵まれ、明日香村文化財課の西光慎二先生の案内で巡りました。嶋の宮にはかつて蘇我馬子の邸宅がありその庭に大きな池を開き嶋を築いたと言われています。池も「勾の池」「上の池」「下の池」があったことが万葉集にも詠われています。この「勾の池」と推定される場所が発掘され、42m四方の大きな池が確認され、池の堤は10mの幅がある壮大な規模でした。護岸の石組は古墳の石室のような豪壮なもので、池底には径20cmの川原石がびっしりと敷きつめられていました。この池の一部が水田の畦畔としていまだに鮮やかに残っています。そしてその畦畔の方向が周辺の水田とは明らかに異なっています。さらに幅10mの堤の外には塀が3時期にわたって作られていたことも判明し、いかに大切な池であったか伺えます。                  

 この池跡から旧高市小学校敷地へ移動しました。ここでは発掘調査により多くの建物跡が発見されています。建物跡は作られた時期によって方向が明らかに違うことがわかりました。北西に傾いている建物群は先ほどの「勾池」と同じ方向で7世紀初め頃と推定されています。また飛鳥宮の最下層で確認されている岡本宮の方向とも同じで、蘇我馬子の時代そのものです。真北に向いた建物群は、皇極朝と天武朝の頃と推定されています。乙巳の変後、蘇我氏の嶋宅は離宮となり、天智・天武天皇の祖母嶋皇祖母や中大兄皇子も住みました。その後、草壁皇子の嶋の宮になっています。

 次に飛鳥川にかかる玉藻橋を渡り、飛鳥川のさがんの道を橘寺に向かって歩きました。途中、東橘遺跡近くで川向いに嶋の宮を眺めながら西光先生の説明を受けました。この東橘遺跡では、立派な建物跡につながる左右の廊下が検出され、時期を特定する土器等が出なかったため不明ですが、草壁皇子の宮殿ではないかと推定されています。また、この飛鳥川を挟んで両方の遺跡が同じ方向を向いているのはただの偶然ではなく、政治的な意味を持っていると強調されました。

 飛鳥宮と嶋の宮と東橘遺跡との関係について歴史的に関連性をもった大きな視点からの展開に壮大な歴史ロマンを感じるフィールドワークでした。